岡田有希子さんの死から30年

前にスペースシャトル事故の記事を投稿して、意外なほど多くのアクセスと好評を頂いた。チャレンジャー事故は1月28日だったが、その同じ年の4月8日に起きたこの出来事も、30年経った今でも忘れることが出来ない。

【投身自殺】悲劇のアイドル岡田有希子 自殺の真相

以下当時のニュース動画(*ショッキングな画像が含まれます、閲覧注意)

自殺に至った原因はいろんな噂があるが、どれも推測の域を出ないようだ。
だが、正直そんなことはどうでもいい。彼女のような逸材がこのような形で芸能生活のみならず人生そのものもわずか18歳で終えてしまったことが、今なお残念でならない。

名古屋市立向陽高校は立派な進学校であり、卒業生の多くが国公立大や有名私学に進学する。話はそれるが、このブログを書きながら調べて初めて知ったのだがマンガ家の石坂啓さんもOGだった。
普通に芸能界に入る人とはいろんな意味で違うタイプの人だったのだろうと思う。

デビュー直後の1984年5月に、東大の五月祭で彼女がステージで歌うのを生で聴く機会があった。歌も落ち着いた雰囲気だったが、トークもとても真面目できちんとした感じだったことをよく覚えている。高校の友人と二人で行ったのだが、とても好印象だったと話していたのが懐かしい。デビュー曲「ファーストデート」から「リトルプリンセス」「恋、はじめまして」と、週間売上ランキングの最高位も20位、14位、そして7位と順調に進んでいた。

ただ、今ふりかえると、この年のレコード大賞での新人賞の受賞が彼女の悲劇の始まりだったように思う。この年は、吉川晃司、菊池桃子、SALLY、一世風靡セピアと、明らかに彼女より売上も存在感も浸透度も高かった新人達がいた。しかしそこはオトナの事情や事務所の力ということで彼女は最優秀新人賞を受賞するが、その瞬間場内では「えーーーーっ??」っとの吉川晃司ファンの悲鳴が流れる。

1984年レコード大賞新人賞(動画あり)

彼女の表情もとても心から喜んでいるようには見えない。

私が彼女の歌のなかで一番好きなのは「哀しい予感」という曲。
その後の悲劇を暗示しているようで聴いていてつらいが、竹内まりや作の素晴らしい曲だと思う。

哀しい予感  作詞・作曲 竹内まりや

お願いよほんとのこと打ち明けてほしい
眠れない夜が続き
哀しい予感に揺れてる私

二度目の夏が過ぎた頃
あなたは突然変わったの
電話の声も少し冷たい
不安な気持ちのまま飛び出してきたけれど
好きよ好きよこんなにも好きよ

お願いようわさなんか嘘だと言ってね
私だけ愛してると
誓った言葉を信じたいから

心と心離れたら
友達でさえもいられない
なんて淋しい季節の始まり

明日からこの道もあの子と歩くのでしょう

風に散った私の初恋
お願いよせめて家にたどり着くまでは
つながれた指と指をはなさないでいて
泣きそうだから

さすがに四谷三丁目に追悼にまで行くことはしないが、30年後の今日改めて彼女の冥福を祈りたい。

チャレンジャー事故から30年〜オニズカ氏を偲ぶ

2016年1月28日(日本時間29日未明)は、チャレンジャー号爆発事故からちょうど30年目。スペースシャトル・チャレンジャー号はケネディ宇宙センターから発射73秒後に空中で爆発し、乗組員7人全員が亡くなった。

The Space Shuttle Challenger explodes shortly after lifting off from Kennedy Space Center, Fla., Tuesday, Jan. 28, 1986. All seven crew members died in the explosion, which was blamed on faulty o-rings in the shuttle's booster rockets. The Challenger's crew was honored with burials at Arlington National Cemetery. (AP Photo/Bruce Weaver)
The Space Shuttle Challenger explodes shortly after lifting off from Kennedy Space Center, Fla., Tuesday, Jan. 28, 1986. All seven crew members died in the explosion, which was blamed on faulty o-rings in the shuttle’s booster rockets. The Challenger’s crew was honored with burials at Arlington National Cemetery. (AP Photo/Bruce Weaver)

この瞬間のことはとてもよく覚えている。大学生の頃、深夜FM番組の「マイサウンドグラフィティ」で大瀧詠一の「EACH TIME」を流していて、それをエアチェック(死語)していた際、ちょうど「恋のナックルボール」という曲の途中で、「番組の途中ですが緊急ニュースです。、、、」との割り込みが入り、「おいおい、録音中なのにふざけんなー」と怒っていたら、直後この衝撃的ニュースを聞くことになった。

チャレンジャー号事故 wiki

この事故により、NASAの有人宇宙飛行計画は大幅に遅れることになる。この2年前に毛利衛さんら日本人初の宇宙飛行士3名が選抜されたが、彼らの初搭乗もやはり大幅に延期となった。

日本ではこの事故で亡くなられた日系2世のオニズカ氏のことが大きく報じられた。

Ellison_Shoji_Onizuka_(NASA)

オニズカ氏は、米国では日系人初、さらに言えばアジア系初の宇宙飛行士だった(*旧ソビエトでは、ベトナム人宇宙飛行士がそれ以前に宇宙に飛んだ実績あり。)

オニズカ氏 wikiから引用。

エリソン・ショージ・オニヅカ(Ellison Shoji Onizuka, 日本名:鬼塚 承次, 1946年6月24日 – 1986年1月28日)は、アメリカ空軍の大佐で、日系人初のアメリカ航空宇宙局宇宙飛行士。1946年6月24日、アメリカ合衆国ハワイ州ハワイ島コナで、コーヒー農家を営む父の鬼塚正光と母の光江の間に4人姉弟3番目の長男として生まれる。父は福岡県、母は広島県にルーツを持つ日系2世。

第二次世界大戦で戦った日系人部隊の話を幼少期より聞き覚え、生涯を通じて意識する。小学生時代、ユーリ・ガガーリンの宇宙飛行を見て宇宙に憧れ、1964年、コロラド大学へ入学して航空宇宙工学を専攻し、奨学金を得てアメリカ空軍予備役将校訓練課程を受ける。1969年、大学卒業時に空軍少尉を授かる。卒業翌日、大学時からの日系人恋人と結婚して後に二人の娘を儲ける。空軍エンジニアを務めながら、アポロ11号月面着陸のテレビ中継に影響されて宇宙飛行士を目指す。1978年、スペースシャトル計画第一期飛行士候補へ応募し、8079人の志願者から同期35人と共に選出される。スペースシャトル・チャレンジャー号乗組員として選抜されるが度々打ち上げ延期になる。

移民の子、それも戦後すぐの敵性国家日系の社会から本当に努力してスーパーエリートとなった、アメリカンドリームを体現したような人である。

しかし、彼は幼い頃聞いた442部隊をはじめとする日系人部隊のこと、そして先祖や祖国日本のことを常に強く意識していた。

1983年6月13日、自身のルーツを探したい旨の記事が西日本新聞に掲載されると200件超の情報が寄せられ、祖父母の墓を見出して血縁親族の所在も判明する。6月24日、家族と共に父方故郷の福岡県浮羽郡浮羽町に墓参して東京も訪れる。

超多忙の日々の中、ここまでして先祖の墓参をしていたのだ。

1985年1月24日、STS-51-Cミッションでディスカバリーの搭乗運用技術者として搭乗する。同乗のローレン・ジェームズ・シュライバー(英語版)アメリカ空軍大佐曰く、箸で日本料理を食べ、日の丸の鉢巻や旗、ハワイのマカダミアナッツやコナ・コーヒーを持ち込み、ハワイアン音楽をかけていたという。1986年1月28日、STS-51-Lミッションでチャレンジャーの搭乗運用技術者として搭乗し、チャレンジャー号爆発事故により39歳で殉職する。

もしこの事故に遭遇せずご存命であればその後どれだけのことをこの人は成し遂げたのだろうかと思う。

本人を称え、ハワイ島マウナ・ケア山の「マウナケア展望台ビジターインフォメーションステーション」が「オニヅカセンター」と名付けられ、コナ国際空港にある「オニヅカ・スペースセンター」に宇宙服などが展示されていて、またカリフォルニア州にオニヅカ空軍駐屯地が所在する。

400px-Onizuka_Center_for_International_Astronomy

ハワイ島マウナケア山中腹(標高約2800m)にある、オニズカスペースセンター

アメリカロサンゼルスの日本人街リトル・トーキョーには、彼を偲ぶ「オニヅカ・ストリート」がある。

オニズカストリートについて

小惑星・オニヅカと月のクレーター・オニヅカ(直径29km)は彼にちなんで命名されたものである。アメリカのSFドラマ『新スタートレック』に、U.S.S.エンタープライズ NCC-1701-Dの艦載機シャトルポッドに「Shuttlepod 07 ONIZUKA」が登場する。
福岡県うきは市の鬼塚家墓所近傍に、功績を称えた「エリソン・オニヅカ橋」がある。
代々が敬虔な浄土真宗信仰の仏教徒で、本人も門徒として活動し後年に真如苑へ入信する。初飛行時、念仏や題目にあたる「讃題」を宇宙で初めて唱えたと本人が語り教団内で話題になる。

再びの宇宙飛行に際し「今回飛行すれば事故で亡くなるかもしれない、それでも行きますか」と尋ねられ、「それでも構いません」と答えて使命感と決意を固く表したといわれる

彼の父の出身地、福岡県うきは市で、つい最近慰霊祭が行われたそうだ。

慰霊祭 チャレンジャー号事故で犠牲、没後30年 オニヅカ氏の雄姿を後世へ うきは市(福岡県)

ふくおか先人金印記念館 オニズカ氏紹介文

「宇宙で初めて箸を使い、寿司を食べた男」、、、
って紹介の仕方は正直どうよと思うが(そもそも二人目はいるのか?)、自身の初フライトでわざわざそれを持ち込むことをNASAに認めさせ、ミッションスペシャリストとしての激務の傍「箸で寿司を食べた」ことには、オニズカさんの並々ならぬ祖国日本への思いがあったのではないだろうか。
それは先述の幼少期から心に刻まれた二次大戦での日系人部隊、日系人ながらアメリカ人として、他のどの部隊より勇敢に戦い、最大の死傷率の中で最大限の活躍をしたハワイの先祖たちの歴史の影響が大きかったのではないかと思う。

442部隊(再掲) (*以下青文字はこちらのHPからの引用)

1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊、通称「テキサス大隊」がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」と呼ばれ始めていた。10月25日には、第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団(日系人で構成された部隊)は、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。

10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重傷を負った。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、第442部隊の少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった

また、テキサス大隊救出作戦後、第一次世界大戦休戦記念日(11月11日)にダールキスト少将が戦闘団を閲兵した際、K中隊に18名、I中隊には8名しかいないのを見とがめ、少将が「部隊全員を整列させろといったはずだ」と不機嫌に言ったのに対し、連隊長代理のミラー中佐が「目の前に並ぶ兵が全員です。残りは戦死か入院です。」と答えたという話が残っている。その報告を聞いたダールキスト少将はショックの余りスピーチさえ出来なかったという。これは第36師団編入時には約2,800名いた兵員が1,400名ほどに減少していたためである。

ロサンゼルスに行くことがあれば、ハリウッドやディズニーランドもいいのだが、ダウンタウンのリトルトーキョーにあるオニズカストリートにもぜひ訪ねてほしい。そしてそのすぐそばにある全米日系人博物館も見て欲しい。強制収容の歴史、日系人部隊の歴史、そしてオニズカさんの足跡が多く展示されている。もちろん日本語も併記されているし、日本語堪能なガイドも多数いる。ドジャースタジアムからもほど近い。オニズカさんの母方は広島だそうだが、今年メジャーデビューする元広島カープ投手のマエケン(前田健太)の応援とあわせて、日米関係の歴史を振り返るのも良い米国訪問体験となるのではないだろうか。

昭和男の心に残るクリスマスソング5選

2015年のクリスマスも静かに終わりました。クリスマスソングってたくさんあるけど、自分の心に残り、これを聴くとグッとくるものを書き留めてみます。

まずは定番から。

サイレント・イブ(辛島美登里)

1990年11月発売。ドラマ「クリスマス・イブ」主題歌。最初はカラオケトラックなしのCDシングルでの発売だったが、1年後にカラオケも入れて発売され、2年連続でクリスマス時期にチャートインしたとのこと。いやー、いい曲です、ほんと。

次はちょいレアな曲。

かりそめのスウィング(甲斐バンド)1975年

甲斐バンドのクリスマスソングっていうと「安奈」って人がアラフィフ世代でも大半だろうけど、俺にはやはりこの曲ですね。甲斐バンド3枚目のシングル。ちなみに1枚目は「バス通り」(売れなかった)、2枚目は大ヒットした「裏切りの街角」。二匹目のドジョウは狙わないということで全く毛色の違う曲としてリリースされたこの曲。やはり一般受けはしなかったようで、前曲が最高週間7位だったのにこれは44位。でもいい曲なんです!そしてそして、この曲のB面があの名曲「ポップコーンをほおばって」。さすがにリアルタイムでは聴いてない自分としては、この時代にシングルEPレコードを買って、このAB面両面を堪能した人を心から嫉妬してしまいます。

次はこれ。Someday Somewhere (チューリップ)1979年

いわゆるチューリップ第1期、上田さん吉田さんが脱退する前の最後のアルバムタイトルの曲です。チューリップはその後新メンバーで彼らの最大のヒット曲「虹とスニーカーの頃」を出したのですが、コアなファンにはこの曲、このアルバムが大好きな人が多いようです。

次は博多の昭和(照和)のバンドが二つ続いたので、女性のを。

ロッヂで待つクリスマス(松任谷由実)1978年


この曲はユーミンのアルバム「流線形’80」の一曲目。「’80」ですが発売は1978年の冬。80年代を先取りしたアルバムだったと思います。このアルバムはほんと全部いい曲で、ユーミンも後年のライブでも大体このアルバムからいつも2−3曲を歌っていたと言われております。サーフ天国スキー天国みたいな能天気?な曲にはない、スキー場での微妙な青春時代の男女の気持ちを詩も曲も表現していたように(勝手に)感じます。リンク先のYoutube画像は、あえてユーミンご自身が登場するものより、スキー場の良さげな光景のものにしてしまいました。

そして、クリスマスソングといえばやはりこれだよ!ってのが、

雪にかいたLove Letter(菊池桃子) 1984年


いや、これですよね、やっぱり!!  ってあんまり共感得られなさそうですが。。。山下達郎よりWham!より、高校時代のこの曲に自分はシビれました。だって、ただ失恋するとか片思いするとかそんな次元じゃなくて、好きな男の子への想いを、「あなたがいつも通るレンガの石畳、雪の上に、せつない想いだけを、指で書いておくの、もし消えても、泣かない」、、、、ですよ。。

当時はなかった言葉ですがもう萌えまくりでした。

でも個人的には残念なことに作詞は秋元康。フトマキさんです。。。結局この方の財布を厚くしていたと思うとやや残念です。

あの頃は誰が作詞家とか考えずに、桃子ちゃんだけを見つめて聴いていたからただただ感動してたんですけどね。。。。。。それにしても菊池桃子さんは今(2015年)も変わらず素敵です。

昭和が続いたので、平成の歌からももう少し。

『LAT.43°N 〜forty-three degrees north latitude〜』Dreams Come True (1989年)


これって初出は80年代だったんですね。でも、90年代初頭に流行った気がします。実はクリスマスソングって訳でもないんだけど、ホワイトイルミネーションとか、冬の光景が描かれているのと、この北緯43度という言葉に込められた札幌と東京の遠距離恋愛の感覚に当時心を打たれました。

ドリカムのクリスマスソングは他にも色々あるけど、自分が一番クリスマスを感じるのはやはりこれですね。

最後に。

Appears 浜崎あゆみ (1999年)


この歌もそんなにクリスマスって感じでもないかもしれないけど、このPVのあゆは本当に素敵で、カラオケでもよく入っているので、ついつい無理に原Keyで唄いたくなってしまうのが男心というものですな。

とりとめもなく書いてたら5曲のはずが7曲になってしまいましたが、どれもこれも自分の中では鉄板のクリスマスソングです。まあ、冷静に考えるとどの曲も、なんか失恋したり片思いだったり、いわゆるクリぼっちな歌ばかりで、己が非リア充なクリスマスばかり過ごしてきたを吐露しているようですが、それもまた人生ってことで。

でもそればかりでは寂しいかも、ということで最後は明るめな曲で。

wonderful christmastime (Paul McCartony) 1980

これも好きですねー。なんかしみじみしますわ。

この8曲全部カラオケで熱唱できる人とは、初対面で親友になれそうです(笑)

*2016年12月23日追記

Paulの曲を挙げましたけど、やはりJohnもいいですねー。
やはりこの二人は永遠のヒーローです。

みなさまの心に残るクリスマスソングもぜひ聞かせてください!

【ライブ観戦記】石野田奈津代さんコンサート@高田馬場

石野田奈津代さん、という歌手を知っている人は私の周りでは少ないだろう。
ましてファンだという人もかなりレアだと思う。

10数年前に、伊豆諸島の神津島に旅行に行ったとき、泊まった民宿(山下旅館別館)に、神津島出身の彼女のデビュー後のファーストアルバム ひまわりが置かれていた。こんな人口も少ない島から高校生がメジャーデビューというのは本当に偉業だが、あいにくCDの売上はソニーミュージックの期待を下回り、2年で契約終了。その売れ残りの在庫(失礼)を衝動買い。結構気に入って、いつか生で聴いてみたいな、と漠然と思いつつもその後すっかり忘れていたのだが、偶然新宿のレコード屋hmvのインストアライブでの彼女の歌声をバッタリ聞いて、CDアルバム さくら を店頭で購入、サインもしてもらったような。

そんなご縁?で時々ライブにも行くようになった。

彼女の公式HPでのプロフィール

かの小田和正さんが、かつて彼女の歌を激賞したこともあるらしい。

【あの小田和正も】ライブで泣かせるオンナ【認めた】

ただ、おそらくはライブに来てるのは結構前からの固定ファンが多く、新しいお客さんは少数だと思う。素晴らしい曲と歌声なので、多くの人に聴いてもらいたいなーと心から思う。

以下はyoutubeのリンクです。もし良かったら一度聴いてみて下さい。

石野田奈津代 春空
 (たぶん彼女の最大のヒット曲、PV)

石野田奈津代 オリオン (彼女のファンの間で最も人気の曲、ライブバージョン)