舛添要一氏が退任した場合、次は誰が都知事になるべき?

乙武洋匡氏にはそれでも立って欲しい。

乙武氏公式HPの、ご本人と奥様による謝罪文

今の彼に対する報道は、これぞ「水に落ちた犬は叩け」状態と言わんばかりの非難轟々。今年2016年夏の参院選に自民党からの出馬が有力視されていたが、辞退・自粛せざるを得ないという報道も多く見られる。

しかし、考えてみると彼は「世間全般」や「有権者」に対して何か悪いことをしたのだろうか?
教育委員会等の公費による出張に愛人を伴っていてその費用も公費持ちだったという訳でもない。
パワハラやセクハラをした訳でもない。
もちろん不倫がいいことなはずはないが、それはあくまで彼のご家族である奥様やお子さんに対しての悪行でしかなく、その奥様が「今日に至るまで二人でしっかり話し合った結果、3人の子どもたちのためにも、あらためて夫婦ともに歩んでいくことを強く決心致しました。」とおっしゃるのであれば、アカの他人がどうこういう筋では全くないはずだ。
(*この文章がもちろん100%奥様の意思を反映しているとは思っていません。立場上こう書かざるを得ない状況もあったでしょう。そして、奥様が謝罪する必要もないしおかしいという意見にも大賛成です。しかしながら、乙武仁美さんという実名まで出しての文章ですから、ご自身の意思に完全に反する内容がアップされるということはあり得ないと考えます。)

この「社会不満足」をかつて読んだことがある。
2014年11月の本だから比較的最近出版された著書だ。
細かい部分は忘れたが、乙武氏ならではの独特の視点や考え方がとても新鮮だった。
すでにブックオフに売ってしまったが、今回の大炎上を受けてもう一度読み返してみたくなった。
やはり四肢欠損という相当大変なハンディキャップを持って生まれ、生活し、「五体不満足」で一気に超有名人になり、それからスポーツライター、教育現場など様々な仕事を経験されて、普通の人には見えないものが彼には見えるのではないかと思う。

また、五体不満足にもかかわらず、三人のお子さんがいらしたこともこの度のことで初めて知った。未だ独身の小泉進次郎より少子化対策を自ら実践していると見ることもできるだろう。

教育、福祉、スポーツ、様々な分野で、他の議員には出来ない彼ならではの知見や提案が期待出来そうだ。

そして何より、多くのひとへの、とりわけ若者世代への発信力の強さは彼の大きな武器だ。彼以上のフォロワー数を持った国会議員って一人もいないのではないだろうか。

悠仁さまご誕生の時、階段を上って入る銀座?のレストランへの批判など、何度となくご自身のツイッターやブログで炎上を経験している彼だが、今回のこれはケタがあまりにも違う大きさで、さすがに相当なダメージだろうと思う。

しかし、私は思う。
「一億総活躍社会」「バリアフリー社会」を標榜する現政権は、今こそ彼をむしろ起用すべきなのではないか。

若者の政治への無関心は大きな問題だと思う。
彼があえて出馬することで、若者の投票率アップにも少なからず貢献できるのではないだろうか?

自民党がダメなら野党でもいい。一票の格差見直しで議員定数が増えた東京選挙区なら、この逆風の中でも彼には十分チャンスはあるだろう。比例全国区で出ても一定の得票は期待できることと思う。無所属で東京から立つのもいいのではないか。

もし彼が今回立つのなら、私は一票を投じたいと心から思う。

丹波市と地方移住

先週末(2015年1月16日)、吉祥寺の自然食レストランパブリックキッチンにて開催された「TOKYO丹波会」というイベントに参加してきた。

Tokyo丹波会画像

丹波市というのは兵庫県の瀬戸内海と日本海の真ん中くらいにある人口7万人足らずの自治体。大阪駅からも特急で1時間程度と、東京からだと結構離れているが、近年首都圏からここに移住する若者がとても増えているそうだ。私も1年半ほど前に初めて丹波に足を運び、移住者の若者や、それを迎える地元の人のお話を色々お聞きする機会があったご縁でお邪魔した。

今回で3回目となったこの会のスローガンは、
「今を生きる丹波人と、いま現在街中で暮らしている元丹波人と、丹波に興味のある人との三つ巴の交流が丹波会の醍醐味。たんなる同窓会では終わらない、新しい繋がりをつくり、これからの丹波を一緒に考え共に動く仲間つくりのコミュニティ“丹波会”。」確かに「◯◯県人会」的な同窓会的な会合とはちょっと趣が違っていて、まさに丹波在住の人(1)、丹波出身で東京に住んでる人(2)、私のように丹波に興味がある人(3)とバリエーションに富んだ集まりだった。

(1)の中にも、その日に東京で行われた移住フェアに出張してきた市役所の人のような元からの丹波人と、Iターンで最近になって丹波で暮らすようになった人とがおり、(2)にはふるさと丹波への思いはあれど東京に持ち家を買ってしまった人、もうすぐUターンして農業を始める人、Uターンを検討中の人など。(3)も私のようにたまたま訪ねた事のあり興味をもった人、Iターンをかなり真剣に考えている人、様々だった。

丹波定住促進サイト(これも面白い。オススメは「移住女子」のコーナー)

この会の幹事の方のお話で印象深かったのは、「こういう会合があることで、これから移住を考えようという人が、丹波出身の人、丹波在住の人、Iターン経験者らと、お酒を片手にくつろいだ雰囲気でお話することで、移住のイメージがかなり具体的になるし、実際に行ってからもいきなりゼロからのスタートでなく既に顔見知りがいるところから始められる。」ということ。この効果はお互いにとって本当に大きいだろう。こういう集まりを、もっといろんな自治体でやったら良いのではないだろうか(既にたくさんあるのかもしれないが)。

今はどこも少子高齢化が進む中、大都市から地方への移住促進がある種のブームになっている。しかし、つい最近NHKで見た新潟県の日本海に浮かぶ離島の粟島の話を見たが、やはり東京から移住してくる人の感覚と、その地でずっと暮らしてきた人の感覚というのはそう簡単に相入れるものではない。

NHKクローズアップ現代 小さな島の大きな決断 ~地方創生の現場か

この番組の中で、都会から来た若い女性が、粟島に一泊3千円位の若者向けゲストハウスを作り観光客を増やし定住者にも繋げようとの企画が、地元の民宿組合が一律7千円位でやっているという理由で反対される、という話が描かれていたが、一概にどちらが正しいと言える話ではないし、都会からの「ふるさと創生事業」等に振り回され続けて島の環境も心も疲弊してしまった地元の視線はなかなか都会の人間には想像しがたい。

やはり地域で発言力のある人と、都会から来た新しい血と、その両方がうまく融合しないと地方が変わってゆくのは難しい。下記リンクの丹波市議横田いたるさんのお話にあるように、いかにそこをうまく進めてゆくかが肝心なのだろう。
丹波市議 横田いたるさんインタビュー記事

丹波というところに、そこにしかないものすごく特別な何かがある訳ではないが、こうしていろんな人たちが明るく前向きにやっていること自体がとても魅力だし、やや閉塞気味の日本全体を元気にするヒントがここにはたくさんあるように感じた。

株式会社ご近所ホームページ
(Iターンの若者が中心となって地元の活性化の事業等をやっている会社)

確かに東京からだと結構な距離ではあるけど、ほんとに魅力的な場所なので、まだ行ったことがない人には一度訪ねてみることをオススメします!

丹波の田んぼ

1964から2020へ ~水泳王国ニッポンへの道~

2016年1月11日NHK BSにて以下の番組を視聴。

1964から2020へ 惨敗から立ち上がれ~水泳王国ニッポンへの道~

競泳競技を見るのは好きで、気がつけばもう30年以上見続けていることになる。「惨敗から立ち上がれ」というタイトルはちょっと刺激的だが、これにはいくつかの意味が含まれており、一つ目は1964年の東京オリンピックでの結果を指す。

戦前の日本は競泳がとても強く、1932年ロサンゼルス五輪は金5銀5銅2、1936年ベルリン五輪は金4銀2銅5。戦後も「フジヤマのトビウオ」古橋広之進が世界記録を連発、戦敗国からの五輪復帰に大きく貢献し、1952年ヘルシンキ、1956年メルボルン、1960年ローマでもそれぞれ3、5、5個のメダルを獲得。地元日本で行われた東京五輪でも大きな期待を受けたが結果は男子800リレーの銅メダル1個に留まり、これを受けて全国の小学校へのプールの導入が進んだと言われている。

その後、1972年ミュンヘンでの田口信教、青木まゆみ、1988年ソウルの鈴木大地、1992年バルセロナの岩崎恭子と、瞬間国民的話題となるメダリストは出現したが、1996年のアトランタは、それまでの持ちタイムでは世界ランクに入る選手が千葉すず選手をはじめ特に女子に多数おり、「史上最強」と持ち上げられ大きな期待を浴びるもメダル獲得ゼロに終わった。

写真

アトランタでは惨敗した競泳陣。期待された千葉すずはバッシングを一身に浴びる格好に

この第二の惨敗を受けての日本競泳チームの改革がこの番組のメインテーマだった。下記リンク、2010年と昔の記事だが、上野氏の改革を詳しく記しているので引用する。
上野広治「競泳日本代表を革新した男」 ~お家芸復活の舞台裏~

上野広治氏はそれまで高校の水泳強豪校の部長であり体育の先生だったが、日本水連によって、日本代表ヘッドコーチに大抜擢される。それ以後彼が尽力したのは、「チームとして一つになること」。

「競泳は一人のコーチが長年にわたり同じ選手を指導する競技です。優秀なコーチであっても、見すぎているために、選手のちょっとした泳ぎの変化を見落とすことがあります。かえってほかのコーチが気づいたりする。でも、自分の教えている選手じゃないから、と見て見ぬふりをしていた。情報を共有するという考えがなく、オープンマインドでもなかったんですね。

 コーチと選手の間の溝も深かった。学校の保健室ではないけど、トレーナーの部屋に来ては、選手がコーチに対する不満をこぼしていたのです。コーチとの間のコミュニケーションが取れなかったからです。それではどんな指示を出しても選手には伝わらない」

 以前、アトランタ五輪の期間中の様子について、ある選手がこんな話をした。コーチが「メダルを獲れ」と強調するあまり、選手が反発し、手を携え戦うべき両者に対立関係が生じた。選手間でも、仲の良し悪しによってグループが形成され、極端に言えば、レースに臨む前に代表内で戦っている状態であったと言う。それは精神面にも影響を及ぼした。再び上野が語る。

「過度の緊張のせいで、レース前にもかかわらず泳いだかのような筋肉のはりのある選手もいたようです。それくらい独特の雰囲気を持つのがオリンピックなんです。なのに、支えてくれる存在がないから選手は一人で重圧を受け止めてしまうことになった」

上野氏はまず、各クラブ間、コーチ間の垣根を取り払うことに腐心、あくまで日本代表のチームとしての向上を皆に求めた。最初は反発や抵抗もあったようだが、確実に成果はあがっていった。

もちろん様々な試行錯誤や軋轢もあった。シドニー五輪代表選考がその大きな例だろう。

「結果を出すためには、戦えない選手はいらない」

 その方針は、ヘッドコーチ就任後、初めてのオリンピックとなる’00年のシドニー五輪の代表選考で実行された。日本オリンピック委員会によって認められていた派遣枠30人に対し、21名のみを代表に選出したのだ。

 突然の方針変更は混乱も呼んだ。それまでなら選ばれていたであろう選手の一人、千葉すずはスポーツ仲裁裁判所に提訴する。結局代表入りは認められなかったが、上野はこの一件を振り返って言う。

「基準をはっきり定めてオープンにしなければいけないと痛感したのは、千葉すずさんの残した功績と言えるのではないでしょうか」

 以後、選考基準は明快なものになった。代表選考会で1位か2位になった上で、日本水泳連盟が設定したタイムをクリアすること。それは国際水泳連盟の定めるタイムを大きく上回る。「世界でもっとも厳しい」と言われるほど高いハードルだ。

「現場のコーチからすれば、オリンピックを経験させるために何人か若手は連れて行ったほうがいいんじゃないかという考えも当然あります。でも結果を出すためには、戦えない選手はいらない。成果から見ても、選考基準の信憑性はあると思っています」

確かにこれ以後の代表選考は誰もが文句や疑問を挟む余地のないものとなった。陸上の男女マラソンなどでは歯切れの悪い代表選考もあるが、競泳のそれは本当にシンプルであり、「世界で戦えるレベル」に日本代表を引き上げたと言えるだろう。

上野氏が実践したことは大きく以下の3つ。

1)世界で戦えるレベルを最初から目標とする。

2)そのためにはジュニアの時代からオールジャパンで育成。そこでは監督もコーチも選手も全てが一つの「日本代表」というチームである。

3)水泳だけができればいいというものでは決してない。人間としても日本一、世界一を目指す教育をする。

こう文字で書いてしまうといささか陳腐だが、これを実践し続けてこそのアテネ、北京、ロンドンでの競泳陣の大活躍があったと思う。

そして、競泳だけでなく、他のスポーツはもちろん、全ての分野においてこういう取り組みが大事なのではないかと感じた。

そして、この改革を選手として引っ張ったのはやはり北島康介だろう。

そして次のリオ五輪では、萩野公介、瀬戸大也という傑出した若い才能の活躍が期待される。複数種目でメダルを狙える選手が日本から現れるというのは、昔から考えると奇跡的なことだ。

なぜ萩野公介をキャプテンに任命したのか 成長の糧は練習とレースだけではない

その萩野選手を指導している平井コーチの記事。平井コーチは北島康介を育てたことで有名だが、その後上野監督と平井ヘッドコーチ二人三脚で代表を育成している。

故・古橋広之進会長がかつて上野に残した言葉も番組で紹介された。

「自分の時代には「魚になるまで泳げ!」と言われて朝から晩まで練習していた。だが、早く泳ぐだけなら、人は魚には勝てない。」

人としての成長あってこそのもので、タイムやメダルはその後からついてくる、ということを競泳日本代表チームが示してくれているのではないだろうか。

北島康介は今も現役選手を続けており、リオ五輪代表を狙っているそうである。あれだけの栄光を極めた彼が目指すものは果たして何なのだろうか。

そして、日本人のスケールを超えた結果を出してきている萩野、瀬戸両選手。

萩野選手は「2020年の東京オリンピックでは、男子400メドレーリレーで王者米国を破り金メダルを取りたい。」と公言している。米国はこれまで、引き継ぎ違反の一度を除きこの種目では負けたことのない絶対王者。20年前にはこんなことを妄想することすら出来なかったが、彼らならもしかしたら、、、という期待が描けてしまう。

今年2016年、4月のリオ五輪代表選考会である日本選手権。そして8月の五輪本番が楽しみでならない。

50歳からの人生〜伊能忠敬に学ぶ〜

ここ数年の間に、日本の人口減少と少子高齢化が深刻な問題として取り上げられる頻度と比重が猛烈に上がったように感じる。実際に統計を見てみた。

総務省人口統計(平成27年12月報)

平成27年12月時点の推計日本人口は1億2688万人、国別ランキングでは現在世界10位。11、12位のメキシコ(1.20億)、フィリピン(1.00億、いずれも2014年推計)に抜かれる日も近そうだ。ただこれらの新興国は若者中心の構成だが、日本は65歳以上が3399万人と全体の27%。この比率は今後年々上がってゆく。50歳以上ということだと実に5799万人(46%)、もうあと数年で過半数となるのは間違いない。

少子化対策というとどうしても出生率を上げようとか移民を増やそうといった議論がメインとなるが、実は50代以上の世代がいかに元気でいるか(収入を増やし納税する、活発に消費する、医療福祉の世話に出来るだけならない)ことのほうが重要度も高く即効性もあるのではないだろうか。その意味で、最近伊能忠敬の人生にとても魅力を感じている。

能力・人徳とも本当に傑出した人物だった。
しかし、彼が本当にやりたかったことは実は暦学・天文学で、激務のなか独学でかなりのものを学んでいたが、50歳で息子に家督を譲り、それ以後は全く違った人生を歩む。引用を続ける。
これだけの成功をした人物が、全く新しい分野で20歳年下の人に師事するというのも大変なことだと思う。そして、
そうと決まればあとは実践あるのみ。

「フェルドマン博士の日本経済最新講義」

ちきりんさんのブログで紹介されていた、「フェルドマン博士の日本経済最新講義」を年末年始に読んでみよう、と思い、本日購入。

Chikirinさんブログ「フェルドマン博士の 日本経済最新講義」について

昭和の男なので、やはり本はAmazonからではなく、書店でぱらぱらと見てから購入。完全にブログに影響されて買ったのにアフィリエイトにお金落とさないでごめんなさい。でももう十分お金持ちだろうからいいよね。

追悼文(櫻井孝昌さん)

12/4金曜の昼過ぎ、IOEA代表の佐藤さんのfacebookの投稿で櫻井孝昌さんが事故で亡くなられたとの書込みを見た。一瞬何が起こったのか理解できなかった。
櫻井孝昌さんと最初にお会いしたのは2013年の秋だった。彼の最初の著書である「アニメ文化外交」(ちくま新書)を読んだのはその一年ほど前。偶然近所のBook offで手にした本だったのだが、日本のアニメがどれだけ世界の若者達に愛されているかを、簡潔でリズミカルな文体で具体的に伝える素晴らしい本で、何度も繰り返し読んだ。今久しぶりに読み返している。

初版が2009年5月。6年 半も前、まだiPhoneが出始めた位の頃だろうか。クールジャパンなんて言葉ももちろんない。ただ、今読んでも櫻井さんが伝えたいことは全く変わっていないし、何一つ中身が古くない本と言えるだろう。
もちろん個別の時代背景、例えば2008年のミャンマーで初めて開催されたアニメイベントの頃のヤンゴンの状況は、今現在、2015年、民主選挙や証券取引所が設立されたミャンマーとは全くもって隔世の感である。しかしそこで描写される、日本のアニメにのめり込む各国の若者たちの描写は今と同じだ。世の中の流れの先を見越し、むしろその流れを主導して作ってこられた人だからこそ書けた本だと改めて思うし、今からでも是非多くの人に読んでほしい。
櫻井さんが本書で伝えている、日本がアニメを外交のために使う意義は以下の5つのポイントである。

1)日本への理解・関心の強化

2)日本経済に対する貢献

3)クリエーターの交流

4)日本語の普及

5)社会モラルの形成

日本では昔、ロリコンアニメが性犯罪者を作るみたいな言われ方をしていた。今もそういう見方はまだ残っている。アニメには暴力的な描写も少なくない。その意味で「社会モラルの形成」に違和感を覚える人もいるだろう。
しかし、むしろドイツやイタリアの学生らが「一場面を切り出せばそういう描写があっても、日本のアニメは全体として平和や、友情や正義を訴えている。」と強く反論しているのだ。「日本のアニメはもちろん日本が作り上げたものだけど、もはや日本だけのものではない」のである。上記5つに加えて、平和への貢献を氏は述べている。
「こういった力をより強く世界に発信するためにはアニメ業界だけの力では難しい。やはり国が外交のためにさまざまなサポートをする必要があるのだ。」今聞けば「そうだよな」と思う人が多いだろうが当時はまだ本当に新鮮な意見だった。それをある種「常識」に昇華させたのは櫻井氏の力が大きいと思う。

このたびの急逝のあとに氏のfacebookのウォールを見ると、本当に世界中から彼の死を哀しむ声がたくさんの国からさまざまな言語で書きこまれている。ちょうど今日の朝私も葬儀に参列したが、やはり外国人の方が多数いらしていた。本当に世界中から親われていた人だったことを改めて感じさせられる。

私自身は3年前から面識はあったが、大変残念ながら公私とも決して深いお付き合いではなかった。正直に言えば、私からある仕事をお願いしようとして話を進めかけていたが諸事情で頓挫してしまい、結果としてはご迷惑をおかけしてしまった。そのお詫びをした際、「よくあることですから全然気にしないで下さい。それよりもっと面白い新しいことまた考えましょうよ!」
そういう人だった。結果それを実現出来なかった自分の能力不足が本当に悔やまれる。
もう一つ。私が学生時代参加した日韓学生フォーラムという、日韓各15−20人づつの大学生が毎夏集まり、両国間の政治、経済、歴史、文化といったことを英語でディスカッションしたり学び合うという活動があり、この夏、OBである自分のところに現役学生から「韓国の大学生から「コミケをどうしても見に行きたい」という強い要望が出ているので便宜を図ってもらえないか」との依頼を受けた。

であれば単にコミケを見て回るというだけでなく、せっかく韓国から来ているのだし、アニメ・マンガのイベントを国際的な視点で捉えたお話も少ししてもらえたら、と IOEA(International Otaku Expo Association)の事務局長である櫻井さんにお願いしたところ快く引き受けて頂いた。
その際、韓国の学生たちが、たまたまこのタイミングですぐ近くにいらした アニメ「六花の勇者」オフィシャル・コスプレイヤーの御伽ねこむ(おとぎねこむ)さんと「どうしても一緒に写真を撮りたい」と言いだし、さすがに私も「いや、向こうは仕事で忙しいんだしちょっと迷惑だから」と私から彼らに話していたら、横から櫻井さんが「いや、せっかく韓国から来たんだしそのくらいやりましょうよ!」と言ってくれて頼んでくれて記念撮影もさせて頂いた。

そういう人だった。

享年49歳。本当に早すぎる死だったが、彼が半世紀の人生で地道に世界で積み上げた信頼と実績はあまりにも大きかったし、それゆえその穴も本当に大きいだろう。しかし、それで今の「アニメ文化外交」の流れを鈍化させたり後退させたりしたら、それは余りに申し訳ない。
櫻井さんがやってきてくれたことをさらに前進させるために、自分も微力ながら出来ることを頑張っていこう、、そう強く感じた日だった。

櫻井孝昌さん、ご冥福お祈りします。

米国に最初に上陸した日本人

先週、北米在住の友人が日本に一時帰国しており、雑談している中で、「米国本土に最初に上陸した日本人」についての話を聞いた。あまりに興味深い話なので、ネットで色々と調べてみた。

ジョン万次郎、いや支倉常長かな、と思いきや、意外な答えが。正解は「三吉」、これは漂流した漁民三人の名前の総称で、音吉(乙吉とも云う)、岩吉、久吉の三人を指す。彼らは中部国際空港(セントレア)の南に位置する現在の愛知県美浜町出身の漁師。1832年、江戸に向かう米を積んだ船が遠州灘で難破し、1年余り太平洋を彷徨い多くの同僚船員を亡くしつつも、シアトル郊外にあるオリンピック半島先端のフラッタリー岬に漂着した。

その後も相当に数奇な人生を送ることとなる。

一度は現地で奴隷のような状態になったらしいが、イギリス船に保護され、彼らはロンドンに渡る。英国に上陸した最初の日本人も実は彼らと言われている。

当時の英国は彼らを日本に返そうとし、ロンドンからマカオに送られた。この時点で日本を出てから三年が経過。ここで史上初の聖書の日本語訳に協力。

それから2年後、アメリカのモリソン号にて帰国しようとしたが、当時の異国船打払令により砲撃を受け帰国は叶わず。上海、そしてシンガポールに定住した最初の日本人となり、そののち英国に帰化した最初の日本人となる。実に初物尽くしである。

音吉が卓越した人物だと思うのは、こんな状況にありながら、我が身を嘆くのではなく、上海において日本人漂流民の帰国に尽力し続けたことである。彼が日本への帰国を助けた漂流民は約20名という。

1843年に上海の英国系貿易会社で働き始め、上海で生活していた1861年までに、日本との通商を希望していたイギリス政府の通訳として2度日本に上陸した。そして1862年にはシンガポールに移住し貿易会社を経営。しかし、1867年、明治の直前に病気のため50歳で死去。なんとも大河ドラマになりそうなほど壮烈な人生である。

江戸時代の日本人で海外に渡った人としては、ロシアの大黒屋光太夫や高田屋嘉兵衛らが有名だが、音吉さんも、海外進出した偉大な日本人の大先達、そして日英通訳翻訳のパイオニアとして、歴史教育で取り上げられてもよいのではないかと思う。

参照記事;

*愛知県美浜町公式HP にっぽん音吉漂流の記

*音吉 wiki

*ブログ 百聞は一見に如かず「アメリカとイギリスに上陸した日本人第一号とは?万次郎の先を行っていた国際人」

 

セミナー参加日誌 『本音×理解×教育⇒可能性∞』

今週の火曜、都内某所で開かれた『本音×理解×教育⇒可能性∞』なるセミナーに参加。こちらの会合には、友人である官僚の方にお誘い頂いたのをきっかけに時々お邪魔している。その方と、広告代理店の方ら幹事の方が幅広い異業種交流会&勉強会として毎月開催されていおり、すでに2年くらい続いているらしい。

だいたい19時くらいに開始し、その日の講師の方がお題として何かをお話し、それを題材に3−4人くらいの小グループで意見交換、そのあとはありがたいことに?ビールやおつまみが出て、お酒を片手に自由に話をするというスタイル。幹事の方のネットワークのおかげで面白い方とお話がフランクな雰囲気で出来るのがとても楽しい。

いろんなお題の会があるのだが、教育関係については、やはり誰もが関心のあるテーマということで2−3ヶ月に一度開かれている。

今回は秋田県の教育関係者の方がゲストとして招かれていた。酒どころの秋田だからか、しょっぱなからビールが振舞われたのは嬉しい(笑)お話の中で気づいたこと、思ったことをいくつか。

-秋田県は昔から教育県。小中学校時の成績は全国の中でもかなり上位。しかし、高校ではだいぶ順位を下げてしまう。

-過疎化は年々進んでいる。秋田県は秋田市を含め、大潟村以外全自治体が将来消滅の危機にあると言われている。そういう状況を受けて、小中学校でも地域のことを教え、地元に誇りを持ってくれるような教育は進めている。ただ、それによって地元に残る、あるいは将来帰ってくるような若者が増えるかどうかはまだわからない。

-そんな秋田県には、秋田県立の「国際教養大学」という大学がある。2004年に出来たばかりだが今や立派な超難関大学。ただそれがゆえに秋田の県立高校出身者が合格するのは相当難しい。秋田県出身者枠を設けてその中で進学する生徒もいるがやはりついていくのは大変。この学校の大半は東京など大都市圏の出身者、卒業後の進路も東京ベースの大企業や外国企業が多く、せっかく日本中から来た学生たちは、必ず1年以上の留学を経験するなど国際的な視野を広げる一方で、多くは秋田県とはあまり接点がなく通り過ぎてしまう。

などなど。

わずか10年でこれだけのレベルの大学大学を立ち上げ、起動に乗せていらっしゃることには、創立者である故・中嶋嶺雄前学長(元東京外大学長)はじめとする関係者の皆さんに本当に敬意を表する。

しかし、せっかく秋田県という様々な歴史、文化を持つ地域との繋がりを活かしきれていないというのは残念としか思えない。これからは地方が直接海外と繋がり、人の交流やビジネスを促進する時代だ。こういう大学を出た地元出身者、あるいは他地域からの学生が、例えば秋田県庁や秋田市に就職し、あるいは地域で起業し、新しいビジネスを切り開いてゆくようになって欲しいし、大学のカリキュラムにも、もっと地域と繋がるような産学連携があってもいいのでは、と思った。

秋田の国際教養大のことばかり書いたけど、実際はそんな話題は全体の中の1%くらいで、他にも学校と地域の関わり方(池田小事件前と後)とか、教育委員会とは何か、など興味深い話題いろいろ。またお邪魔したいと思いました。幹事の皆様、ありがとうございました。

最後に、今回参加された大学生の方から「ここで色々話すのはいいけど、皆さん明日から具体的に何をするんでしょうか?自己満足で終わってしまいませんか?」という素晴らしい問題提起も頂いた。ほんと、もっと真面目に生きないと。