浅田真央、北島康介、イチローに思う。

浅田真央選手の2015-16シーズンが終わった。
GPファイナル6位(出場選手中最下位)、世界選手権7位。
結果だけを見れば彼女にとっては決して本意ではなかったと思う。いくつかジャンプをミスしたショートプログラムと違い、フリーはほぼノーミスに近い演技で、ある意味ソチ五輪を彷彿させたが、フリー単独でも7位と、最終グループの6人は全員彼女を上回るフリーを演じた。ソチの頃よりも明らかにレベルは上がっているし、若手の成長もロシアを中心に著しい。そろそろ引退、という発想があっても全くおかしくはなかった。

しかし彼女は早くもその翌日に現役続行の意向をコメントしたようだ。

浅田、現役続行の意向=「そういう思いある」

メダルとか順位とか、そういうものを超えたところに彼女の目指すところはあるのだと思う。そういうことであれば次の平昌五輪まで是非頑張って欲しいし、厳しい国内の代表争いにも勝ち残って欲しいと願っている。

この浅田真央選手を見ていて、自分はもう二人の「日本スポーツ史上空前の名選手」のことを思った。水泳の北島康介、そしてイチローだ。

浅田選手含めたこの三人の共通点。それは、

-日本人選手として、その競技が始まって以来の傑出した成果を、長期間に渡って出し続けていること
-外国にも、そして次世代の若い選手達にも憧れ、目標であり続けていること
-十分過ぎるくらいの実績、名声、達成感を得ていると思われるのに、そのピークの実力が過ぎたと思われる現在においても現役選手であり続けていること

などが挙げられると思う。そしてそれぞれの競技で、羽生結弦、萩野公介、大谷翔平ら、その才能においては彼らを超えるかとも思わせる若手(たまたまだがこの三人はみな1994-95年生まれ世代)が台頭してきてもいる。引退してもっとゆったりした人生を楽しんでも良いのではないかと凡人である自分は思ってしまうのだが、彼ら超一流を極めた人たちの価値判断や行動基準は全く違うところにあるのだろう。

浅田選手のシーズンは終わり、次のシーズン、オリンピックの一年前のシーズンに向けての動きが始まる。

水泳では、リオ五輪の代表選考を兼ねた全日本選手権が今週開幕。北島選手は100、200平泳ぎにエントリー。代表入りを本気で全力で目指している。恩師平井コーチにも再度弟子入りし、一から鍛え直しているそうだ。

そしてMLBもいよいよ開幕。イチローにどれだけの出場機会が与えられるかはわからない。昨年の打率等の数字は彼にとっては考えられないほど低い結果だったことと思うが、年齢的な衰えを本人が一番感じているなか、彼は日米通算25シーズン目の開幕を迎える。

この三人のアスリート達が自分は大好きで、どの選手もまだ本格的に活躍する前の段階から注目して見続けてきていた。彼らには本当に感謝をしている。

浅田選手は素晴らしいフリーを演じてくれた。
北島選手にも、五輪代表入りをして欲しいと心より願っている。
イチロー選手にも、今シーズン3000本安打を達成して欲しい。そして彼が夢見続けてきたワールドシリーズへの出場を果たしてほしい。

 

清原の「美談」を振り返る。

清原和博は偉大な野球人だと今なお思う。こんなことになっても、殿堂入りすべき選手だとも心より思う。

覚醒剤使用で逮捕されてから、多くの人が清原についてたくさんのことを語っている。その中で目に止まった、ある「美談」を取り上げたい。
それは、2001年のシーズン最終戦に起きたことである。
以下、facebookページ「成功の架け橋」より引用。

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2001年、阪神・和田豊の引退試合。対戦相手は巨人。
一二塁の清原と仁志が
「和田さん、僕たちの方へヒットを打ってきて下さい」と、
流し打ちの名手にエールを送った。
試合中、和田の打席。
巨人内野陣は「和田シフト」
と呼ばれる一塁寄りの守備シフトを実行。
しかし一塁・清原は二塁・仁志に
「あっち行け」と手で合図。
一二塁間をあけろという事。
結果は現役最後の安打となる右翼前安打。
こういう面があるから
清原ってスターなんだなって思った。
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少なからぬ人が「清原にはこんないいところがあったんだ」という反応をしている。
実はそれが自分にはとても腹立たしい。なぜならば、この2001年10月1日の巨人にとっての最終戦は、長嶋監督の最終ゲームでもあったが、それ以上にまだヤクルトと優勝を争う大事な一戦だったからだ。

この年は「勝ち数が多いチームが上位」という不思議な制度が採用された年だった。

ヤクルトはこの10月1日のゲーム前日時点で9試合を残すも74勝(52敗5引分け)。追う巨人は、最終戦を前にして75勝(62敗2引分け)。この年の制度上は、この時点ではジャイアンツが首位だった。

しかし、巨人シーズン最終戦で、清原の「チームの勝利より引退する和田豊への “男気” 」という行動から、 和田の一打席目は上記引用のような「配慮」も手伝い安打で出塁、その後生還し先制点。二打席目も四球出塁後に4点につながる流れとなり結果5−0で阪神の勝利。

和田豊 引退試合(2001年巨人最終戦)の流れ

ここで仮に巨人が勝っていたとしたら76勝。優勝のためには残りヤクルトは3勝6敗が必要ということで依然ヤクルトが有利ではあったが、同日の10月1日にヤクルトは広島に敗北、残り8試合も結果としては2勝1分5敗と、実はかなり薄氷の優勝だった。若松監督の有名なコメント「ファンの皆様、おめでとうございます」なんて言ってられる状況ではなかったのだ。

2001年ヤクルト後半戦勝敗の詳細

2001年の巨人全試合

2001年のペナントレース(全結果)

何が言いたいかというと、清原の「美談」や「男気」は、2001年のセリーグペナントレースで巨人が優勝出来ていた可能性を大きく損なう方向に作用したということ(しかもそれは長嶋監督の最終シーズンでもあった)。
現在の覚醒剤使用で逮捕された局面で、この出来事が「ちょっといい話」としてSNS等でシェアされているのにはどうしても疑問を抱かずにはおられない。
これ自体は小さなことのようだが、このように自身が本来すべき行動から外れ、己の「男道」や「美学」で自分本位な方向に走ってしまう、これが結局彼の現在の破局につながってしまったではないだろうか。

ただ、清原を弁護するつもりではないのだが、このときの巨人というチームにも相当に問題があったと思う。
9月28日に長嶋監督の勇退と原新監督の就任を発表、また翌29日には長く巨人で活躍した斎藤雅樹、槙原寛己、村田真一も引退を発表。この時点で残り二試合、9/30の本拠地最終戦(対横浜)と10/1の甲子園(対阪神)のみ。
結果9/30は、本来は優勝の可能性を少しでも残すために何をおいても勝ちにいくべき試合であるべきだったが、監督と三選手の引退興行さながらの内容(下記リンクご参照)となり結果は4-9と惨敗。

2001年 巨人本拠地最終戦の様子(最終戦の前の試合)

この流れを受けての最終戦がゆえに、清原ばかりを非難するのももちろん正しくはない。

しかし、こういった清原の姿勢を周囲が看過した結果起きたことが、
その4年後、大魔神佐々木主浩の「引退試合」だ。

大魔神佐々木主浩の引退登板と清原選手
上記リンクから以下引用させて頂く。この方のご見解に私は完全に同意する。

それが清原選手の美学なのか?(2005年08月10日 )

昨日、大魔神こと佐々木主浩投手が故郷でラスト登板し、生涯のライバルで在り親友でも在る清原和博選手との対決で、15年のプロ人生に幕を降ろした。

一流選手に在りがちなチーム内の”お山の大将”ぶりがやや過ぎた感じを受けたし、オフシーズンとはいえあのチャラチャラぶりが鼻に付いた所が在ったので、正直な所佐々木投手は好きな選手ではなかった。しかし、選手としての彼は間違いなく超一流で在ったし、素晴らしい選手として認識していたのも事実だった。相手がベイスターズの時ジャイアンツ・ファンで在る自分は、8回が終わった時点でジャイアンツが負けていれば、敗戦を100%覚悟するのが常だった。それだけ、彼のスピード在る直球と落差の在るフォークボールは脅威で在り、絶対的な抑えだった。

そんな素晴らしい選手だったからこそ、個人的には遅きに失した引退で晩節を汚した様に感じられ、それが非常に残念である。とは言え、彼が球界に残した偉大な功績は賞賛に値するし、素晴らしいプロの技術を見せてくれた事に心から感謝したい。本当に御疲れ様でした。

唯、昨日のラスト登板で気になったというか、憤りを感じた事が在った。ラスト登板そのものに付いてではない。2回裏無死1塁で打席は清原選手という場面で佐々木投手を登板させた牛島監督の采配には、佐々木投手の意向を汲んだ上、序盤に彼を投げさせる事で公式戦という真剣勝負の場を蔑ろにさせなかったという、実に行き届いた配慮が感じられ、敵将ながら天晴れであった。佐々木投手も往年の凄みは無かったものの、真摯に投げ込んだ4球は心打たれるものが在った。自分が憤りを感じたのは、打席に立っていた清原選手の姿勢に在った。

以前、「清原発言とアンリトゥン・ルール」という記事を書いた。タイガースが大差をつけて勝っている状況で、藤川投手が2アウト満塁2-3のカウントから清原選手に対してストレートではなくフォークを投じて空振り三振に打ち取った事を、試合後に清原選手が批判した件で猛バッシングされたのだが、そんな彼を一部擁護した内容だった。だが、今回は厳しい目を向けざるを得ない。

昨日の佐々木投手との”対決”では、初球から3球目迄は全て直球勝負だった。ここからは、あくまでも自分にはそう見えたという話になってしまうが、初球の明らかにボールと判る球は別として、2&3球目のストライクとなった球は黙って見逃す程の際どいものでは全くなく、どう考えても振りに行く球だった。なのに、全く打つ素振りも見せずにアッサリと見逃し。そして、4球目は外に落ちるフォークだったが、往年の鋭さは感じられない全くのボール球に思えた。私見に過ぎないが、清原選手の美学が其処に働いていたのではないかと考える。つまり、ストレートを敢えて見逃して2ストライクとなった段階で、決め球であるフォークで豪快に三振する。八百長とは違う、ライバルの最後に花を持たせたいという美学だったのではないかと。それ程、素人目には露骨さを感じてしまう”打ち取られ方”だった。

事実の程は清原選手しか判らない。もし真剣に挑んであの結果だったのならば、清原選手のプロとしての衰えを思うだけだ。でも、仮に彼の美学に基づいてあの場面を”演出”したのだとしたら、それに付き合わされたファンは幸せだったのだろうか?少なくとも自分には、真剣勝負の場を汚された様で憤りの思いだけが残った。あれがオールスター等の”御祭り”の場で在ったならば、とやかく言うつもりは毛頭無い。公式戦という場で、尚且つ優勝チームが決まった後の消化試合ではないにも拘わらず、演出したかの様なあざとさに腹が立つのだ。「涙の御対面」といった番組で、過剰に泣きの演出を繰り返すあの嫌な感じと何処か似ている気がした。

あの場面で清原選手が打とうが打ち取られようが、又、ジャイアンツが勝とうが負けようがそんな事を問題にしているのではない。美学に基づく演出ではなく、本当に真剣勝負だったのかどうかが引っ掛かるのだ。

嘗てタイガースのエースだった江夏豊投手は、奪三振の日本タイ記録及び新記録を、最大のライバルと目していた王貞治選手で決める事を心に誓い、実際に成し遂げた。江夏投手の熱き思いはマスメディアォ通して王選手にも伝わっていたが、プロとしての意地から相手に花を持たせるという意識は全くなく、両者共に真っ向勝負に挑んだという。だからこそ、その両者の姿はファンの心に深く刻まれているのではないか。

牛島監督の配慮と佐々木投手の真摯な投球を感じただけに、清原選手の姿に自分はガッカリさせられた。

 以上。大選手清原を語るうえでは瑣末なエピソードかもしれない。
しかし、こういったことが看過されたどころか一部では褒め讃えたことが今の悲惨な状況に繋がっている側面は必ずあると思う。色々書いたが、自分はやはり同世代の清原には憧れがあった。サヨナラ本塁打はNPB史上歴代単独1位の12本。タイトルは取れなかったかもしれないが、甲子園、オールスター、日本シリーズ、大舞台に本当に強かった。
『俺たちに出来ないことを平然とやってのける、そこにシビれる憧れるゥ!』という言葉を捧げるのが本当に似つかわしい男だったと思う。それゆえに、今のどん底から立ち直り、薬物を断ち、這い上がる姿を望まずにはいられない。「男道」を見せるのはこれからだと心から思う。

 

チャレンジャー事故から30年〜オニズカ氏を偲ぶ

2016年1月28日(日本時間29日未明)は、チャレンジャー号爆発事故からちょうど30年目。スペースシャトル・チャレンジャー号はケネディ宇宙センターから発射73秒後に空中で爆発し、乗組員7人全員が亡くなった。

The Space Shuttle Challenger explodes shortly after lifting off from Kennedy Space Center, Fla., Tuesday, Jan. 28, 1986. All seven crew members died in the explosion, which was blamed on faulty o-rings in the shuttle's booster rockets. The Challenger's crew was honored with burials at Arlington National Cemetery. (AP Photo/Bruce Weaver)
The Space Shuttle Challenger explodes shortly after lifting off from Kennedy Space Center, Fla., Tuesday, Jan. 28, 1986. All seven crew members died in the explosion, which was blamed on faulty o-rings in the shuttle’s booster rockets. The Challenger’s crew was honored with burials at Arlington National Cemetery. (AP Photo/Bruce Weaver)

この瞬間のことはとてもよく覚えている。大学生の頃、深夜FM番組の「マイサウンドグラフィティ」で大瀧詠一の「EACH TIME」を流していて、それをエアチェック(死語)していた際、ちょうど「恋のナックルボール」という曲の途中で、「番組の途中ですが緊急ニュースです。、、、」との割り込みが入り、「おいおい、録音中なのにふざけんなー」と怒っていたら、直後この衝撃的ニュースを聞くことになった。

チャレンジャー号事故 wiki

この事故により、NASAの有人宇宙飛行計画は大幅に遅れることになる。この2年前に毛利衛さんら日本人初の宇宙飛行士3名が選抜されたが、彼らの初搭乗もやはり大幅に延期となった。

日本ではこの事故で亡くなられた日系2世のオニズカ氏のことが大きく報じられた。

Ellison_Shoji_Onizuka_(NASA)

オニズカ氏は、米国では日系人初、さらに言えばアジア系初の宇宙飛行士だった(*旧ソビエトでは、ベトナム人宇宙飛行士がそれ以前に宇宙に飛んだ実績あり。)

オニズカ氏 wikiから引用。

エリソン・ショージ・オニヅカ(Ellison Shoji Onizuka, 日本名:鬼塚 承次, 1946年6月24日 – 1986年1月28日)は、アメリカ空軍の大佐で、日系人初のアメリカ航空宇宙局宇宙飛行士。1946年6月24日、アメリカ合衆国ハワイ州ハワイ島コナで、コーヒー農家を営む父の鬼塚正光と母の光江の間に4人姉弟3番目の長男として生まれる。父は福岡県、母は広島県にルーツを持つ日系2世。

第二次世界大戦で戦った日系人部隊の話を幼少期より聞き覚え、生涯を通じて意識する。小学生時代、ユーリ・ガガーリンの宇宙飛行を見て宇宙に憧れ、1964年、コロラド大学へ入学して航空宇宙工学を専攻し、奨学金を得てアメリカ空軍予備役将校訓練課程を受ける。1969年、大学卒業時に空軍少尉を授かる。卒業翌日、大学時からの日系人恋人と結婚して後に二人の娘を儲ける。空軍エンジニアを務めながら、アポロ11号月面着陸のテレビ中継に影響されて宇宙飛行士を目指す。1978年、スペースシャトル計画第一期飛行士候補へ応募し、8079人の志願者から同期35人と共に選出される。スペースシャトル・チャレンジャー号乗組員として選抜されるが度々打ち上げ延期になる。

移民の子、それも戦後すぐの敵性国家日系の社会から本当に努力してスーパーエリートとなった、アメリカンドリームを体現したような人である。

しかし、彼は幼い頃聞いた442部隊をはじめとする日系人部隊のこと、そして先祖や祖国日本のことを常に強く意識していた。

1983年6月13日、自身のルーツを探したい旨の記事が西日本新聞に掲載されると200件超の情報が寄せられ、祖父母の墓を見出して血縁親族の所在も判明する。6月24日、家族と共に父方故郷の福岡県浮羽郡浮羽町に墓参して東京も訪れる。

超多忙の日々の中、ここまでして先祖の墓参をしていたのだ。

1985年1月24日、STS-51-Cミッションでディスカバリーの搭乗運用技術者として搭乗する。同乗のローレン・ジェームズ・シュライバー(英語版)アメリカ空軍大佐曰く、箸で日本料理を食べ、日の丸の鉢巻や旗、ハワイのマカダミアナッツやコナ・コーヒーを持ち込み、ハワイアン音楽をかけていたという。1986年1月28日、STS-51-Lミッションでチャレンジャーの搭乗運用技術者として搭乗し、チャレンジャー号爆発事故により39歳で殉職する。

もしこの事故に遭遇せずご存命であればその後どれだけのことをこの人は成し遂げたのだろうかと思う。

本人を称え、ハワイ島マウナ・ケア山の「マウナケア展望台ビジターインフォメーションステーション」が「オニヅカセンター」と名付けられ、コナ国際空港にある「オニヅカ・スペースセンター」に宇宙服などが展示されていて、またカリフォルニア州にオニヅカ空軍駐屯地が所在する。

400px-Onizuka_Center_for_International_Astronomy

ハワイ島マウナケア山中腹(標高約2800m)にある、オニズカスペースセンター

アメリカロサンゼルスの日本人街リトル・トーキョーには、彼を偲ぶ「オニヅカ・ストリート」がある。

オニズカストリートについて

小惑星・オニヅカと月のクレーター・オニヅカ(直径29km)は彼にちなんで命名されたものである。アメリカのSFドラマ『新スタートレック』に、U.S.S.エンタープライズ NCC-1701-Dの艦載機シャトルポッドに「Shuttlepod 07 ONIZUKA」が登場する。
福岡県うきは市の鬼塚家墓所近傍に、功績を称えた「エリソン・オニヅカ橋」がある。
代々が敬虔な浄土真宗信仰の仏教徒で、本人も門徒として活動し後年に真如苑へ入信する。初飛行時、念仏や題目にあたる「讃題」を宇宙で初めて唱えたと本人が語り教団内で話題になる。

再びの宇宙飛行に際し「今回飛行すれば事故で亡くなるかもしれない、それでも行きますか」と尋ねられ、「それでも構いません」と答えて使命感と決意を固く表したといわれる

彼の父の出身地、福岡県うきは市で、つい最近慰霊祭が行われたそうだ。

慰霊祭 チャレンジャー号事故で犠牲、没後30年 オニヅカ氏の雄姿を後世へ うきは市(福岡県)

ふくおか先人金印記念館 オニズカ氏紹介文

「宇宙で初めて箸を使い、寿司を食べた男」、、、
って紹介の仕方は正直どうよと思うが(そもそも二人目はいるのか?)、自身の初フライトでわざわざそれを持ち込むことをNASAに認めさせ、ミッションスペシャリストとしての激務の傍「箸で寿司を食べた」ことには、オニズカさんの並々ならぬ祖国日本への思いがあったのではないだろうか。
それは先述の幼少期から心に刻まれた二次大戦での日系人部隊、日系人ながらアメリカ人として、他のどの部隊より勇敢に戦い、最大の死傷率の中で最大限の活躍をしたハワイの先祖たちの歴史の影響が大きかったのではないかと思う。

442部隊(再掲) (*以下青文字はこちらのHPからの引用)

1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊、通称「テキサス大隊」がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」と呼ばれ始めていた。10月25日には、第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団(日系人で構成された部隊)は、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。

10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重傷を負った。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、第442部隊の少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった

また、テキサス大隊救出作戦後、第一次世界大戦休戦記念日(11月11日)にダールキスト少将が戦闘団を閲兵した際、K中隊に18名、I中隊には8名しかいないのを見とがめ、少将が「部隊全員を整列させろといったはずだ」と不機嫌に言ったのに対し、連隊長代理のミラー中佐が「目の前に並ぶ兵が全員です。残りは戦死か入院です。」と答えたという話が残っている。その報告を聞いたダールキスト少将はショックの余りスピーチさえ出来なかったという。これは第36師団編入時には約2,800名いた兵員が1,400名ほどに減少していたためである。

ロサンゼルスに行くことがあれば、ハリウッドやディズニーランドもいいのだが、ダウンタウンのリトルトーキョーにあるオニズカストリートにもぜひ訪ねてほしい。そしてそのすぐそばにある全米日系人博物館も見て欲しい。強制収容の歴史、日系人部隊の歴史、そしてオニズカさんの足跡が多く展示されている。もちろん日本語も併記されているし、日本語堪能なガイドも多数いる。ドジャースタジアムからもほど近い。オニズカさんの母方は広島だそうだが、今年メジャーデビューする元広島カープ投手のマエケン(前田健太)の応援とあわせて、日米関係の歴史を振り返るのも良い米国訪問体験となるのではないだろうか。

日本フィギュアスケート殿堂の設立を!

野球を観るのが大好きなので、プレミア12も終わり、NPB(日本プロ野球)もMLB(米国メジャーリーグ野球)も、MVP、新人賞、ベストナイン等各賞の発表も全て終わるこの時期は少し寂しいものだ。
FAなどストーブリーグの動きも眺めつつ、次なる楽しみは、毎年1月初旬の日米の野球殿堂入り投票の結果発表である。

MLBの殿堂入りというのは大変な名誉であり、多くの米国の野球ファンはその結果をとても興味深く眺めている。NPBのほうはそこまでのステータスはないかもしれないが、東京ドームにある野球殿堂博物館は日本の野球の歴史を物語る素晴らしい施設だと思う。

実はフィギュアスケートにも殿堂がある。

世界フィギュアスケート殿堂 wiki

米国コロラドスプリングスにあるこの殿堂は、フィギュアスケートの発展に大きく貢献した人を顕彰する組織であり、1976年の最初の選出以降は毎年だいたい数名が選ばれる。やはり選手が大半であり、アマチュア引退後5年経過すれば選出される対象者となる(このへんは野球に倣ったのかもしれない)。日本人はこれまで伊藤みどりさん、佐藤信夫さんの二人が殿堂入りを果たしている。米国にあることから殿堂入りについても北米偏重との批判もあるようだし、その選出基準や選考方法に不明瞭さも批判があるようだが、まずはこういった、一つの競技の歴史を築いてきた選手、指導者、審判 等をたたえ、歴史を振り返る組織、仕組みがあることは素晴らしいことだと思う。

翻って、日本は世界でも屈指のフィギュアスケート強国であり、ここ10年来男女シングルでは毎年優勝候補やメダリストを輩出している。また、日本は今や世界で一番フィギュアスケートの試合やアイスショーに多くの観客が熱狂する国であり、明日から開幕するNHK杯フィギュア(長野)も、チケットはあっという間に完売している。日本のファンたちはもちろん日本選手に大きな声援を送るが、一方で角国どの選手に対しても暖かい応援をすると世界中の関係者で評判になっているらしい。

であれば、日本単独のフィギュアスケート殿堂も存在すべきではないだろうか。
過去の名選手やスケート界に貢献した方々を称え後世に歴史を語り継ぎつつ、今後も素晴らしい選手が輩出され続けるよう、通年リンク等練習環境の支援や、競技人口のすそ野を増やすことへの取り組み、日本の課題たるカップル競技(ペア、アイスダンス)の強化など、今これだけの人気があればこそやれることがあるのではないだろうか。

全くの思いつきだが、殿堂入りした過去から現代の名選手たちの様々な記念品等を展示するとともに、過去の映像アーカイブも蓄積し、主たる競技大会の際はパブリックビューイングを行ったり、講演会的なものをやったり、通年で書籍、DVDやグッズの販売などをやる施設があれば、かなり賑わうのではないかとも思う。
東京にあるのが一番集客できるだろうが、あえて最近通年リンクが出来た盛岡や新潟に設けて、地域活性化につなげるのも一案だろう。

今回のNHK杯に出場予定の浅田真央選手、羽生結弦選手という、歴代でも最高峰レベルの選手たちの下の世代にも次々と新星が登場しているのは素晴らしいことである。ただ、今の現状はそれぞれの選手・コーチたちの身を削るような努力に支えられていて、組織的な選手輩出のメカニズムが機能しているようには感じられない。何より本当にお金のかかるスポーツ。もちろんこれだけ国も地方も財政赤字の極限にある中で公共の予算をつけることには相当慎重でなければならないが、なんといってもお金を出すことを厭わないこれだけたくさんのファンがいるし、トップレベルになれば多くの企業にとって魅力的な広告の対象となれるのだ。民間の資本をうまく取り込む方法は、殿堂に限らずで色々考えられると思う。

そして、今の反映の礎になってきてくれた、例えば男子なら佐野稔、五十嵐文男、本田武史、高橋大輔らの先駆者たちの足跡や物語をこれからの世代にも伝えてゆけるような何かをもっと強く推進すべき時期なのではないだろうか。

NHK杯フィギュア。浅田選手、羽生選手だけでなく、他の日本選手、外国選手全員が、今年最高の演技をしてくれることを期待します!!

NHK杯フィギュア2015 公式HP