2016年1月11日NHK BSにて以下の番組を視聴。
1964から2020へ 惨敗から立ち上がれ~水泳王国ニッポンへの道~
競泳競技を見るのは好きで、気がつけばもう30年以上見続けていることになる。「惨敗から立ち上がれ」というタイトルはちょっと刺激的だが、これにはいくつかの意味が含まれており、一つ目は1964年の東京オリンピックでの結果を指す。
戦前の日本は競泳がとても強く、1932年ロサンゼルス五輪は金5銀5銅2、1936年ベルリン五輪は金4銀2銅5。戦後も「フジヤマのトビウオ」古橋広之進が世界記録を連発、戦敗国からの五輪復帰に大きく貢献し、1952年ヘルシンキ、1956年メルボルン、1960年ローマでもそれぞれ3、5、5個のメダルを獲得。地元日本で行われた東京五輪でも大きな期待を受けたが結果は男子800リレーの銅メダル1個に留まり、これを受けて全国の小学校へのプールの導入が進んだと言われている。
その後、1972年ミュンヘンでの田口信教、青木まゆみ、1988年ソウルの鈴木大地、1992年バルセロナの岩崎恭子と、瞬間国民的話題となるメダリストは出現したが、1996年のアトランタは、それまでの持ちタイムでは世界ランクに入る選手が千葉すず選手をはじめ特に女子に多数おり、「史上最強」と持ち上げられ大きな期待を浴びるもメダル獲得ゼロに終わった。

アトランタでは惨敗した競泳陣。期待された千葉すずはバッシングを一身に浴びる格好に
この第二の惨敗を受けての日本競泳チームの改革がこの番組のメインテーマだった。下記リンク、2010年と昔の記事だが、上野氏の改革を詳しく記しているので引用する。
上野広治「競泳日本代表を革新した男」 ~お家芸復活の舞台裏~
上野広治氏はそれまで高校の水泳強豪校の部長であり体育の先生だったが、日本水連によって、日本代表ヘッドコーチに大抜擢される。それ以後彼が尽力したのは、「チームとして一つになること」。
「競泳は一人のコーチが長年にわたり同じ選手を指導する競技です。優秀なコーチであっても、見すぎているために、選手のちょっとした泳ぎの変化を見落とすことがあります。かえってほかのコーチが気づいたりする。でも、自分の教えている選手じゃないから、と見て見ぬふりをしていた。情報を共有するという考えがなく、オープンマインドでもなかったんですね。
コーチと選手の間の溝も深かった。学校の保健室ではないけど、トレーナーの部屋に来ては、選手がコーチに対する不満をこぼしていたのです。コーチとの間のコミュニケーションが取れなかったからです。それではどんな指示を出しても選手には伝わらない」
以前、アトランタ五輪の期間中の様子について、ある選手がこんな話をした。コーチが「メダルを獲れ」と強調するあまり、選手が反発し、手を携え戦うべき両者に対立関係が生じた。選手間でも、仲の良し悪しによってグループが形成され、極端に言えば、レースに臨む前に代表内で戦っている状態であったと言う。それは精神面にも影響を及ぼした。再び上野が語る。
「過度の緊張のせいで、レース前にもかかわらず泳いだかのような筋肉のはりのある選手もいたようです。それくらい独特の雰囲気を持つのがオリンピックなんです。なのに、支えてくれる存在がないから選手は一人で重圧を受け止めてしまうことになった」
上野氏はまず、各クラブ間、コーチ間の垣根を取り払うことに腐心、あくまで日本代表のチームとしての向上を皆に求めた。最初は反発や抵抗もあったようだが、確実に成果はあがっていった。
もちろん様々な試行錯誤や軋轢もあった。シドニー五輪代表選考がその大きな例だろう。
「結果を出すためには、戦えない選手はいらない」
その方針は、ヘッドコーチ就任後、初めてのオリンピックとなる’00年のシドニー五輪の代表選考で実行された。日本オリンピック委員会によって認められていた派遣枠30人に対し、21名のみを代表に選出したのだ。
突然の方針変更は混乱も呼んだ。それまでなら選ばれていたであろう選手の一人、千葉すずはスポーツ仲裁裁判所に提訴する。結局代表入りは認められなかったが、上野はこの一件を振り返って言う。
「基準をはっきり定めてオープンにしなければいけないと痛感したのは、千葉すずさんの残した功績と言えるのではないでしょうか」
以後、選考基準は明快なものになった。代表選考会で1位か2位になった上で、日本水泳連盟が設定したタイムをクリアすること。それは国際水泳連盟の定めるタイムを大きく上回る。「世界でもっとも厳しい」と言われるほど高いハードルだ。
「現場のコーチからすれば、オリンピックを経験させるために何人か若手は連れて行ったほうがいいんじゃないかという考えも当然あります。でも結果を出すためには、戦えない選手はいらない。成果から見ても、選考基準の信憑性はあると思っています」
確かにこれ以後の代表選考は誰もが文句や疑問を挟む余地のないものとなった。陸上の男女マラソンなどでは歯切れの悪い代表選考もあるが、競泳のそれは本当にシンプルであり、「世界で戦えるレベル」に日本代表を引き上げたと言えるだろう。
上野氏が実践したことは大きく以下の3つ。
1)世界で戦えるレベルを最初から目標とする。
2)そのためにはジュニアの時代からオールジャパンで育成。そこでは監督もコーチも選手も全てが一つの「日本代表」というチームである。
3)水泳だけができればいいというものでは決してない。人間としても日本一、世界一を目指す教育をする。
こう文字で書いてしまうといささか陳腐だが、これを実践し続けてこそのアテネ、北京、ロンドンでの競泳陣の大活躍があったと思う。
そして、競泳だけでなく、他のスポーツはもちろん、全ての分野においてこういう取り組みが大事なのではないかと感じた。
そして、この改革を選手として引っ張ったのはやはり北島康介だろう。
そして次のリオ五輪では、萩野公介、瀬戸大也という傑出した若い才能の活躍が期待される。複数種目でメダルを狙える選手が日本から現れるというのは、昔から考えると奇跡的なことだ。
なぜ萩野公介をキャプテンに任命したのか 成長の糧は練習とレースだけではない
その萩野選手を指導している平井コーチの記事。平井コーチは北島康介を育てたことで有名だが、その後上野監督と平井ヘッドコーチ二人三脚で代表を育成している。
故・古橋広之進会長がかつて上野に残した言葉も番組で紹介された。
「自分の時代には「魚になるまで泳げ!」と言われて朝から晩まで練習していた。だが、早く泳ぐだけなら、人は魚には勝てない。」
古橋 広之進 日本図書センター 1997-02-25
人としての成長あってこそのもので、タイムやメダルはその後からついてくる、ということを競泳日本代表チームが示してくれているのではないだろうか。
北島康介は今も現役選手を続けており、リオ五輪代表を狙っているそうである。あれだけの栄光を極めた彼が目指すものは果たして何なのだろうか。
そして、日本人のスケールを超えた結果を出してきている萩野、瀬戸両選手。
萩野選手は「2020年の東京オリンピックでは、男子400メドレーリレーで王者米国を破り金メダルを取りたい。」と公言している。米国はこれまで、引き継ぎ違反の一度を除きこの種目では負けたことのない絶対王者。20年前にはこんなことを妄想することすら出来なかったが、彼らならもしかしたら、、、という期待が描けてしまう。
今年2016年、4月のリオ五輪代表選考会である日本選手権。そして8月の五輪本番が楽しみでならない。