清原の「美談」を振り返る。

清原和博は偉大な野球人だと今なお思う。こんなことになっても、殿堂入りすべき選手だとも心より思う。

覚醒剤使用で逮捕されてから、多くの人が清原についてたくさんのことを語っている。その中で目に止まった、ある「美談」を取り上げたい。
それは、2001年のシーズン最終戦に起きたことである。
以下、facebookページ「成功の架け橋」より引用。

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2001年、阪神・和田豊の引退試合。対戦相手は巨人。
一二塁の清原と仁志が
「和田さん、僕たちの方へヒットを打ってきて下さい」と、
流し打ちの名手にエールを送った。
試合中、和田の打席。
巨人内野陣は「和田シフト」
と呼ばれる一塁寄りの守備シフトを実行。
しかし一塁・清原は二塁・仁志に
「あっち行け」と手で合図。
一二塁間をあけろという事。
結果は現役最後の安打となる右翼前安打。
こういう面があるから
清原ってスターなんだなって思った。
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少なからぬ人が「清原にはこんないいところがあったんだ」という反応をしている。
実はそれが自分にはとても腹立たしい。なぜならば、この2001年10月1日の巨人にとっての最終戦は、長嶋監督の最終ゲームでもあったが、それ以上にまだヤクルトと優勝を争う大事な一戦だったからだ。

この年は「勝ち数が多いチームが上位」という不思議な制度が採用された年だった。

ヤクルトはこの10月1日のゲーム前日時点で9試合を残すも74勝(52敗5引分け)。追う巨人は、最終戦を前にして75勝(62敗2引分け)。この年の制度上は、この時点ではジャイアンツが首位だった。

しかし、巨人シーズン最終戦で、清原の「チームの勝利より引退する和田豊への “男気” 」という行動から、 和田の一打席目は上記引用のような「配慮」も手伝い安打で出塁、その後生還し先制点。二打席目も四球出塁後に4点につながる流れとなり結果5−0で阪神の勝利。

和田豊 引退試合(2001年巨人最終戦)の流れ

ここで仮に巨人が勝っていたとしたら76勝。優勝のためには残りヤクルトは3勝6敗が必要ということで依然ヤクルトが有利ではあったが、同日の10月1日にヤクルトは広島に敗北、残り8試合も結果としては2勝1分5敗と、実はかなり薄氷の優勝だった。若松監督の有名なコメント「ファンの皆様、おめでとうございます」なんて言ってられる状況ではなかったのだ。

2001年ヤクルト後半戦勝敗の詳細

2001年の巨人全試合

2001年のペナントレース(全結果)

何が言いたいかというと、清原の「美談」や「男気」は、2001年のセリーグペナントレースで巨人が優勝出来ていた可能性を大きく損なう方向に作用したということ(しかもそれは長嶋監督の最終シーズンでもあった)。
現在の覚醒剤使用で逮捕された局面で、この出来事が「ちょっといい話」としてSNS等でシェアされているのにはどうしても疑問を抱かずにはおられない。
これ自体は小さなことのようだが、このように自身が本来すべき行動から外れ、己の「男道」や「美学」で自分本位な方向に走ってしまう、これが結局彼の現在の破局につながってしまったではないだろうか。

ただ、清原を弁護するつもりではないのだが、このときの巨人というチームにも相当に問題があったと思う。
9月28日に長嶋監督の勇退と原新監督の就任を発表、また翌29日には長く巨人で活躍した斎藤雅樹、槙原寛己、村田真一も引退を発表。この時点で残り二試合、9/30の本拠地最終戦(対横浜)と10/1の甲子園(対阪神)のみ。
結果9/30は、本来は優勝の可能性を少しでも残すために何をおいても勝ちにいくべき試合であるべきだったが、監督と三選手の引退興行さながらの内容(下記リンクご参照)となり結果は4-9と惨敗。

2001年 巨人本拠地最終戦の様子(最終戦の前の試合)

この流れを受けての最終戦がゆえに、清原ばかりを非難するのももちろん正しくはない。

しかし、こういった清原の姿勢を周囲が看過した結果起きたことが、
その4年後、大魔神佐々木主浩の「引退試合」だ。

大魔神佐々木主浩の引退登板と清原選手
上記リンクから以下引用させて頂く。この方のご見解に私は完全に同意する。

それが清原選手の美学なのか?(2005年08月10日 )

昨日、大魔神こと佐々木主浩投手が故郷でラスト登板し、生涯のライバルで在り親友でも在る清原和博選手との対決で、15年のプロ人生に幕を降ろした。

一流選手に在りがちなチーム内の”お山の大将”ぶりがやや過ぎた感じを受けたし、オフシーズンとはいえあのチャラチャラぶりが鼻に付いた所が在ったので、正直な所佐々木投手は好きな選手ではなかった。しかし、選手としての彼は間違いなく超一流で在ったし、素晴らしい選手として認識していたのも事実だった。相手がベイスターズの時ジャイアンツ・ファンで在る自分は、8回が終わった時点でジャイアンツが負けていれば、敗戦を100%覚悟するのが常だった。それだけ、彼のスピード在る直球と落差の在るフォークボールは脅威で在り、絶対的な抑えだった。

そんな素晴らしい選手だったからこそ、個人的には遅きに失した引退で晩節を汚した様に感じられ、それが非常に残念である。とは言え、彼が球界に残した偉大な功績は賞賛に値するし、素晴らしいプロの技術を見せてくれた事に心から感謝したい。本当に御疲れ様でした。

唯、昨日のラスト登板で気になったというか、憤りを感じた事が在った。ラスト登板そのものに付いてではない。2回裏無死1塁で打席は清原選手という場面で佐々木投手を登板させた牛島監督の采配には、佐々木投手の意向を汲んだ上、序盤に彼を投げさせる事で公式戦という真剣勝負の場を蔑ろにさせなかったという、実に行き届いた配慮が感じられ、敵将ながら天晴れであった。佐々木投手も往年の凄みは無かったものの、真摯に投げ込んだ4球は心打たれるものが在った。自分が憤りを感じたのは、打席に立っていた清原選手の姿勢に在った。

以前、「清原発言とアンリトゥン・ルール」という記事を書いた。タイガースが大差をつけて勝っている状況で、藤川投手が2アウト満塁2-3のカウントから清原選手に対してストレートではなくフォークを投じて空振り三振に打ち取った事を、試合後に清原選手が批判した件で猛バッシングされたのだが、そんな彼を一部擁護した内容だった。だが、今回は厳しい目を向けざるを得ない。

昨日の佐々木投手との”対決”では、初球から3球目迄は全て直球勝負だった。ここからは、あくまでも自分にはそう見えたという話になってしまうが、初球の明らかにボールと判る球は別として、2&3球目のストライクとなった球は黙って見逃す程の際どいものでは全くなく、どう考えても振りに行く球だった。なのに、全く打つ素振りも見せずにアッサリと見逃し。そして、4球目は外に落ちるフォークだったが、往年の鋭さは感じられない全くのボール球に思えた。私見に過ぎないが、清原選手の美学が其処に働いていたのではないかと考える。つまり、ストレートを敢えて見逃して2ストライクとなった段階で、決め球であるフォークで豪快に三振する。八百長とは違う、ライバルの最後に花を持たせたいという美学だったのではないかと。それ程、素人目には露骨さを感じてしまう”打ち取られ方”だった。

事実の程は清原選手しか判らない。もし真剣に挑んであの結果だったのならば、清原選手のプロとしての衰えを思うだけだ。でも、仮に彼の美学に基づいてあの場面を”演出”したのだとしたら、それに付き合わされたファンは幸せだったのだろうか?少なくとも自分には、真剣勝負の場を汚された様で憤りの思いだけが残った。あれがオールスター等の”御祭り”の場で在ったならば、とやかく言うつもりは毛頭無い。公式戦という場で、尚且つ優勝チームが決まった後の消化試合ではないにも拘わらず、演出したかの様なあざとさに腹が立つのだ。「涙の御対面」といった番組で、過剰に泣きの演出を繰り返すあの嫌な感じと何処か似ている気がした。

あの場面で清原選手が打とうが打ち取られようが、又、ジャイアンツが勝とうが負けようがそんな事を問題にしているのではない。美学に基づく演出ではなく、本当に真剣勝負だったのかどうかが引っ掛かるのだ。

嘗てタイガースのエースだった江夏豊投手は、奪三振の日本タイ記録及び新記録を、最大のライバルと目していた王貞治選手で決める事を心に誓い、実際に成し遂げた。江夏投手の熱き思いはマスメディアォ通して王選手にも伝わっていたが、プロとしての意地から相手に花を持たせるという意識は全くなく、両者共に真っ向勝負に挑んだという。だからこそ、その両者の姿はファンの心に深く刻まれているのではないか。

牛島監督の配慮と佐々木投手の真摯な投球を感じただけに、清原選手の姿に自分はガッカリさせられた。

 以上。大選手清原を語るうえでは瑣末なエピソードかもしれない。
しかし、こういったことが看過されたどころか一部では褒め讃えたことが今の悲惨な状況に繋がっている側面は必ずあると思う。色々書いたが、自分はやはり同世代の清原には憧れがあった。サヨナラ本塁打はNPB史上歴代単独1位の12本。タイトルは取れなかったかもしれないが、甲子園、オールスター、日本シリーズ、大舞台に本当に強かった。
『俺たちに出来ないことを平然とやってのける、そこにシビれる憧れるゥ!』という言葉を捧げるのが本当に似つかわしい男だったと思う。それゆえに、今のどん底から立ち直り、薬物を断ち、這い上がる姿を望まずにはいられない。「男道」を見せるのはこれからだと心から思う。

 

追悼文(櫻井孝昌さん)

12/4金曜の昼過ぎ、IOEA代表の佐藤さんのfacebookの投稿で櫻井孝昌さんが事故で亡くなられたとの書込みを見た。一瞬何が起こったのか理解できなかった。
櫻井孝昌さんと最初にお会いしたのは2013年の秋だった。彼の最初の著書である「アニメ文化外交」(ちくま新書)を読んだのはその一年ほど前。偶然近所のBook offで手にした本だったのだが、日本のアニメがどれだけ世界の若者達に愛されているかを、簡潔でリズミカルな文体で具体的に伝える素晴らしい本で、何度も繰り返し読んだ。今久しぶりに読み返している。

初版が2009年5月。6年 半も前、まだiPhoneが出始めた位の頃だろうか。クールジャパンなんて言葉ももちろんない。ただ、今読んでも櫻井さんが伝えたいことは全く変わっていないし、何一つ中身が古くない本と言えるだろう。
もちろん個別の時代背景、例えば2008年のミャンマーで初めて開催されたアニメイベントの頃のヤンゴンの状況は、今現在、2015年、民主選挙や証券取引所が設立されたミャンマーとは全くもって隔世の感である。しかしそこで描写される、日本のアニメにのめり込む各国の若者たちの描写は今と同じだ。世の中の流れの先を見越し、むしろその流れを主導して作ってこられた人だからこそ書けた本だと改めて思うし、今からでも是非多くの人に読んでほしい。
櫻井さんが本書で伝えている、日本がアニメを外交のために使う意義は以下の5つのポイントである。

1)日本への理解・関心の強化

2)日本経済に対する貢献

3)クリエーターの交流

4)日本語の普及

5)社会モラルの形成

日本では昔、ロリコンアニメが性犯罪者を作るみたいな言われ方をしていた。今もそういう見方はまだ残っている。アニメには暴力的な描写も少なくない。その意味で「社会モラルの形成」に違和感を覚える人もいるだろう。
しかし、むしろドイツやイタリアの学生らが「一場面を切り出せばそういう描写があっても、日本のアニメは全体として平和や、友情や正義を訴えている。」と強く反論しているのだ。「日本のアニメはもちろん日本が作り上げたものだけど、もはや日本だけのものではない」のである。上記5つに加えて、平和への貢献を氏は述べている。
「こういった力をより強く世界に発信するためにはアニメ業界だけの力では難しい。やはり国が外交のためにさまざまなサポートをする必要があるのだ。」今聞けば「そうだよな」と思う人が多いだろうが当時はまだ本当に新鮮な意見だった。それをある種「常識」に昇華させたのは櫻井氏の力が大きいと思う。

このたびの急逝のあとに氏のfacebookのウォールを見ると、本当に世界中から彼の死を哀しむ声がたくさんの国からさまざまな言語で書きこまれている。ちょうど今日の朝私も葬儀に参列したが、やはり外国人の方が多数いらしていた。本当に世界中から親われていた人だったことを改めて感じさせられる。

私自身は3年前から面識はあったが、大変残念ながら公私とも決して深いお付き合いではなかった。正直に言えば、私からある仕事をお願いしようとして話を進めかけていたが諸事情で頓挫してしまい、結果としてはご迷惑をおかけしてしまった。そのお詫びをした際、「よくあることですから全然気にしないで下さい。それよりもっと面白い新しいことまた考えましょうよ!」
そういう人だった。結果それを実現出来なかった自分の能力不足が本当に悔やまれる。
もう一つ。私が学生時代参加した日韓学生フォーラムという、日韓各15−20人づつの大学生が毎夏集まり、両国間の政治、経済、歴史、文化といったことを英語でディスカッションしたり学び合うという活動があり、この夏、OBである自分のところに現役学生から「韓国の大学生から「コミケをどうしても見に行きたい」という強い要望が出ているので便宜を図ってもらえないか」との依頼を受けた。

であれば単にコミケを見て回るというだけでなく、せっかく韓国から来ているのだし、アニメ・マンガのイベントを国際的な視点で捉えたお話も少ししてもらえたら、と IOEA(International Otaku Expo Association)の事務局長である櫻井さんにお願いしたところ快く引き受けて頂いた。
その際、韓国の学生たちが、たまたまこのタイミングですぐ近くにいらした アニメ「六花の勇者」オフィシャル・コスプレイヤーの御伽ねこむ(おとぎねこむ)さんと「どうしても一緒に写真を撮りたい」と言いだし、さすがに私も「いや、向こうは仕事で忙しいんだしちょっと迷惑だから」と私から彼らに話していたら、横から櫻井さんが「いや、せっかく韓国から来たんだしそのくらいやりましょうよ!」と言ってくれて頼んでくれて記念撮影もさせて頂いた。

そういう人だった。

享年49歳。本当に早すぎる死だったが、彼が半世紀の人生で地道に世界で積み上げた信頼と実績はあまりにも大きかったし、それゆえその穴も本当に大きいだろう。しかし、それで今の「アニメ文化外交」の流れを鈍化させたり後退させたりしたら、それは余りに申し訳ない。
櫻井さんがやってきてくれたことをさらに前進させるために、自分も微力ながら出来ることを頑張っていこう、、そう強く感じた日だった。

櫻井孝昌さん、ご冥福お祈りします。

ここでしか読めない?水木しげる先生追悼文

享年93歳、大往生だろう。本当に多くの人が惜しい人を亡くした、とか。霊界で妖怪と運動会してるのでは、とか、睡眠力や氏の七か条の話題を書いている。

自分にとっての水木しげるさんの最大の思い出は、幼い 頃トラウマになったアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」シリーズである。私の世代は、第一期の白黒アニメだった鬼太郎にはほとんど馴染みがないが、カラーになった第二期のほうは、小学校時代にかなりの頻度で再放送されていたためよく見ていた。
子供向けの勧善懲悪妖怪退治ものと思いきや、実はトンデモナイ恐ろしい話がいくつかあり、中でも「足跡の怪」(下記動画)は、本当に夢に出るくらい恐ろしかった。簡単に書くと、登場人物が、霊のたたりで目や耳や鼻が削げ落ち、死んでしまうという話。

ゲゲゲの鬼太郎「足跡の怪」

今改めてみたら、さすがに子供の頃ほどには怖くないものの、やはりグロいし、何とも救いのない話だ。そして何より、鬼太郎は完全に脇役である。

下記「地相眼」も怖かった。こちらは、妖怪の力で事業を成功させた実業家に対し、妖怪が責任を迫り、息子が石にされるという話。このエピソードでも鬼太郎は傍観者であり全く無力である。

ゲゲゲの鬼太郎「地相眼」

この第二期の鬼太郎では、45話のうち半分以上の23話が、元々は鬼太郎原作ではない水木先生の短編が元ネタとなっている。本放送のあった1971−72年という、オイルショック、ベトナム戦争、浅間山荘といった暗澹とした社会背景を反映した部分もあったようだ。

ゲゲゲの鬼太郎アニメ第二期について

といったように、自分の幼少時の水木先生はトラウマの源だったのだが、大人になってから愛読したのは氏の自伝的作品である「コミック昭和史」。

 

 

コミック昭和史

これは昭和の歴史を氏の視点からなぞった歴史漫画、特に太平洋戦争の悲惨さを描いた作品であると語られる事が多い。もちろんそれは事実でそういう読み方を最初はしたのだが、二度目、三度目と読み返したとき目がとまるのは、水木先生とニューブリテン島(現在のパプアニューギニアに所属)の土人たち(あえてこう書きます)であるトペトロやエプペたちとの交流の部分。

ラバウルの激戦で水木先生は片腕を失い現地で死にかけるのだが、現地人たちに助けられ、身内のように親しくなる(なぜかパウロと呼ばれる)。終戦後も日本に帰国せずそのまま土着しようと思うが、上官から一度は戻って親にも会えと言われ「すぐ戻ってくるから」と帰国。再訪するのは25年後の1970年。そのあたりの漫画の話が本当にワクワクするほど面白いのだ。

余談だがニューブリテン島は九州とほぼ同じ面積と太平洋諸島でもかなり大きい島。現在その最大都市となったラバウルは軍歌にもその名がよく出てくる場所で、日本軍が強固な要塞を築き、結局終戦まで米軍は包囲はしても攻め込むことはできなかった場所である。

ということで、水木しげる先生といえば「足跡の怪」「地相眼」そしてニューギニアの原住民たちとの交流。こんな側面もあることを少しでも多くの人に知ってもらえたら嬉しい限りである。

さらに余談だが、水木先生は地元境港の発展のために、ご自身のキャラクターをほとんど無償で利用させて、空港名にもなり、国内外の観光客の増加、商店街等の発展にもつながった。お亡くなりになったこのタイミングで、キャンペーン的に電子書籍で「コミック昭和史」「総員玉砕せよ」「劇画ヒットラー」などを公開して、多くの人に読んでもらうようなことは考えられないだろうか。そういえばこの夏に岩手県の遠野に行った折に氏による漫画「遠野物語」が売られていて衝動買いしたがこれも名作。

取りとめない文章になったが、一般的な鬼太郎やゲゲゲの女房とは違った、水木先生の多面的な作品軍が読み継がれていくことが、たぶん最大の供養となることだとう思う。長い漫画家人生、本当にお疲れさまでした。