昭和男の心に残るクリスマスソング5選

2015年のクリスマスも静かに終わりました。クリスマスソングってたくさんあるけど、自分の心に残り、これを聴くとグッとくるものを書き留めてみます。

まずは定番から。

サイレント・イブ(辛島美登里)

1990年11月発売。ドラマ「クリスマス・イブ」主題歌。最初はカラオケトラックなしのCDシングルでの発売だったが、1年後にカラオケも入れて発売され、2年連続でクリスマス時期にチャートインしたとのこと。いやー、いい曲です、ほんと。

次はちょいレアな曲。

かりそめのスウィング(甲斐バンド)1975年

甲斐バンドのクリスマスソングっていうと「安奈」って人がアラフィフ世代でも大半だろうけど、俺にはやはりこの曲ですね。甲斐バンド3枚目のシングル。ちなみに1枚目は「バス通り」(売れなかった)、2枚目は大ヒットした「裏切りの街角」。二匹目のドジョウは狙わないということで全く毛色の違う曲としてリリースされたこの曲。やはり一般受けはしなかったようで、前曲が最高週間7位だったのにこれは44位。でもいい曲なんです!そしてそして、この曲のB面があの名曲「ポップコーンをほおばって」。さすがにリアルタイムでは聴いてない自分としては、この時代にシングルEPレコードを買って、このAB面両面を堪能した人を心から嫉妬してしまいます。

次はこれ。Someday Somewhere (チューリップ)1979年

いわゆるチューリップ第1期、上田さん吉田さんが脱退する前の最後のアルバムタイトルの曲です。チューリップはその後新メンバーで彼らの最大のヒット曲「虹とスニーカーの頃」を出したのですが、コアなファンにはこの曲、このアルバムが大好きな人が多いようです。

次は博多の昭和(照和)のバンドが二つ続いたので、女性のを。

ロッヂで待つクリスマス(松任谷由実)1978年


この曲はユーミンのアルバム「流線形’80」の一曲目。「’80」ですが発売は1978年の冬。80年代を先取りしたアルバムだったと思います。このアルバムはほんと全部いい曲で、ユーミンも後年のライブでも大体このアルバムからいつも2−3曲を歌っていたと言われております。サーフ天国スキー天国みたいな能天気?な曲にはない、スキー場での微妙な青春時代の男女の気持ちを詩も曲も表現していたように(勝手に)感じます。リンク先のYoutube画像は、あえてユーミンご自身が登場するものより、スキー場の良さげな光景のものにしてしまいました。

そして、クリスマスソングといえばやはりこれだよ!ってのが、

雪にかいたLove Letter(菊池桃子) 1984年


いや、これですよね、やっぱり!!  ってあんまり共感得られなさそうですが。。。山下達郎よりWham!より、高校時代のこの曲に自分はシビれました。だって、ただ失恋するとか片思いするとかそんな次元じゃなくて、好きな男の子への想いを、「あなたがいつも通るレンガの石畳、雪の上に、せつない想いだけを、指で書いておくの、もし消えても、泣かない」、、、、ですよ。。

当時はなかった言葉ですがもう萌えまくりでした。

でも個人的には残念なことに作詞は秋元康。フトマキさんです。。。結局この方の財布を厚くしていたと思うとやや残念です。

あの頃は誰が作詞家とか考えずに、桃子ちゃんだけを見つめて聴いていたからただただ感動してたんですけどね。。。。。。それにしても菊池桃子さんは今(2015年)も変わらず素敵です。

昭和が続いたので、平成の歌からももう少し。

『LAT.43°N 〜forty-three degrees north latitude〜』Dreams Come True (1989年)


これって初出は80年代だったんですね。でも、90年代初頭に流行った気がします。実はクリスマスソングって訳でもないんだけど、ホワイトイルミネーションとか、冬の光景が描かれているのと、この北緯43度という言葉に込められた札幌と東京の遠距離恋愛の感覚に当時心を打たれました。

ドリカムのクリスマスソングは他にも色々あるけど、自分が一番クリスマスを感じるのはやはりこれですね。

最後に。

Appears 浜崎あゆみ (1999年)


この歌もそんなにクリスマスって感じでもないかもしれないけど、このPVのあゆは本当に素敵で、カラオケでもよく入っているので、ついつい無理に原Keyで唄いたくなってしまうのが男心というものですな。

とりとめもなく書いてたら5曲のはずが7曲になってしまいましたが、どれもこれも自分の中では鉄板のクリスマスソングです。まあ、冷静に考えるとどの曲も、なんか失恋したり片思いだったり、いわゆるクリぼっちな歌ばかりで、己が非リア充なクリスマスばかり過ごしてきたを吐露しているようですが、それもまた人生ってことで。

でもそればかりでは寂しいかも、ということで最後は明るめな曲で。

wonderful christmastime (Paul McCartony) 1980

これも好きですねー。なんかしみじみしますわ。

この8曲全部カラオケで熱唱できる人とは、初対面で親友になれそうです(笑)

*2016年12月23日追記

Paulの曲を挙げましたけど、やはりJohnもいいですねー。
やはりこの二人は永遠のヒーローです。

みなさまの心に残るクリスマスソングもぜひ聞かせてください!

フィギュアスケート全日本選手権2015の浅田真央選手が楽しみ!

*下記リンクに寄稿した記事ですが、こちらにも掲載します。

http://www.jvta.net/blog/kirari20151225/?utm_source=%E5%8F%97%E4%BF%AE%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC1225&utm_medium=email&utm_campaign=%E5%8F%97%E4%BF%AE%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC1225

発見!キラリ 輝き続ける華「浅田真央」

発見!キラリ 輝き続ける華「浅田真央」

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12月のテーマ:華
フィギュアスケートの全日本選手権は毎年クリスマスシーズンに開催される。今年(2015年)は12月24日(木)~27日(日)、札幌の真駒内セキスイハイムアイスアリーナが舞台。五輪、世界選手権等への出場権の選考を兼ねたシビアな試合ゆえ、多くの選手達は長年クリスマスを楽しんだことがないという。かつてこの全日本選手権に小学6年生で特例出場したのが浅田真央選手。見事に3連続3回転ジャンプを決めたのは2002年、もう13年も前のことだ。
浅田選手は2014年春、ソチ五輪の終了後にさいたまスーパーアリーナで行われた世界選手権で優勝したのち休養を宣言。昨年ははじめてクリスマスを楽しんだのではないだろうか。復帰するか否かは「ハーフハーフ」だったが、再び競技の道を選んだのはご存知の通り。しかし、わずか1シーズン空けただけで、世界の有力選手も随分入れ替わってきている。先日12月初旬にバルセロナで行われたグランプリシリーズ(GP)ファイナルで優勝したメドベデワ選手(ロシア)は16歳、銀メダルの宮原知子選手は17歳。浅田選手の全日本デビューの2002年には、彼女たちはまだスケート靴を履いたばかりだったはず…。“幼いころから浅田真央に憧れていた”という少女達は今や強烈なライバルに成長し、浅田選手はこの試合で6位と大きく後塵を拝した。
かつて王貞治さんが引退を強く意識し始めたのは、自分がプロ野球に入ったあとに生まれた世代の投手と対戦するようになってからだと聞いたことがある。浅田選手も、今まさにそういう気持ちになっているのかもしれない。今回の全日本で浅田選手は、現在NHK杯、GPファイナルで好成績を挙げ、絶好調の宮原選手と競う。本郷理華選手、永井優香選手ら次世代の若手たちも猛烈に追い上げてきているだけに、表彰台はもとより、世界選手権代表の選に漏れる可能性もある。
そんな厳しい環境の中でも彼女が競技を続けているのは、やはり本当に心の底からスケートが好きだからではないだろうか。例えば2008年、ヨーテボリ(スウェーデン)の世界選手権では、冒頭のトリプルアクセルに失敗。リンクの上にうつ伏せに倒れ込んだ時は誰もがもうダメだと思ったに違いない。しかし、浅田選手は決してあきらめず、それ以後のジャンプを全て成功させ、世界選手権初優勝を飾った。この試合の解説をしていた長野五輪銅メダリストのキャンデローロ氏(フランス)は、「世界中の選手達、特に子供達に、彼女のこの演技を見てほしい」と語った。

さらにソチ五輪では、ショートプログラムの大失敗で16位と出遅れたものの、翌日のフリーでは会心の滑りをみせ、6位入賞という結果を残した。メダルには手が届かなかったが、彼女の不屈のチャレンジはメダル以上の感動を与えてくれた。

浅田真央選手のトリプルアクセルや芸術的な表現は素晴らしい。しかし、最大の魅力は、どんな状況でも決してあきらめない、投げ出さない心、そして何よりスケートが好きでたまらない、という気持ちにあると思う。今年の全日本選手権ではどんな演技を見せてくれるのだろうか。順位やジャンプの成否ではなく、彼女の演技そのものを全力で応援したい。

 

追悼文(櫻井孝昌さん)

12/4金曜の昼過ぎ、IOEA代表の佐藤さんのfacebookの投稿で櫻井孝昌さんが事故で亡くなられたとの書込みを見た。一瞬何が起こったのか理解できなかった。
櫻井孝昌さんと最初にお会いしたのは2013年の秋だった。彼の最初の著書である「アニメ文化外交」(ちくま新書)を読んだのはその一年ほど前。偶然近所のBook offで手にした本だったのだが、日本のアニメがどれだけ世界の若者達に愛されているかを、簡潔でリズミカルな文体で具体的に伝える素晴らしい本で、何度も繰り返し読んだ。今久しぶりに読み返している。

初版が2009年5月。6年 半も前、まだiPhoneが出始めた位の頃だろうか。クールジャパンなんて言葉ももちろんない。ただ、今読んでも櫻井さんが伝えたいことは全く変わっていないし、何一つ中身が古くない本と言えるだろう。
もちろん個別の時代背景、例えば2008年のミャンマーで初めて開催されたアニメイベントの頃のヤンゴンの状況は、今現在、2015年、民主選挙や証券取引所が設立されたミャンマーとは全くもって隔世の感である。しかしそこで描写される、日本のアニメにのめり込む各国の若者たちの描写は今と同じだ。世の中の流れの先を見越し、むしろその流れを主導して作ってこられた人だからこそ書けた本だと改めて思うし、今からでも是非多くの人に読んでほしい。
櫻井さんが本書で伝えている、日本がアニメを外交のために使う意義は以下の5つのポイントである。

1)日本への理解・関心の強化

2)日本経済に対する貢献

3)クリエーターの交流

4)日本語の普及

5)社会モラルの形成

日本では昔、ロリコンアニメが性犯罪者を作るみたいな言われ方をしていた。今もそういう見方はまだ残っている。アニメには暴力的な描写も少なくない。その意味で「社会モラルの形成」に違和感を覚える人もいるだろう。
しかし、むしろドイツやイタリアの学生らが「一場面を切り出せばそういう描写があっても、日本のアニメは全体として平和や、友情や正義を訴えている。」と強く反論しているのだ。「日本のアニメはもちろん日本が作り上げたものだけど、もはや日本だけのものではない」のである。上記5つに加えて、平和への貢献を氏は述べている。
「こういった力をより強く世界に発信するためにはアニメ業界だけの力では難しい。やはり国が外交のためにさまざまなサポートをする必要があるのだ。」今聞けば「そうだよな」と思う人が多いだろうが当時はまだ本当に新鮮な意見だった。それをある種「常識」に昇華させたのは櫻井氏の力が大きいと思う。

このたびの急逝のあとに氏のfacebookのウォールを見ると、本当に世界中から彼の死を哀しむ声がたくさんの国からさまざまな言語で書きこまれている。ちょうど今日の朝私も葬儀に参列したが、やはり外国人の方が多数いらしていた。本当に世界中から親われていた人だったことを改めて感じさせられる。

私自身は3年前から面識はあったが、大変残念ながら公私とも決して深いお付き合いではなかった。正直に言えば、私からある仕事をお願いしようとして話を進めかけていたが諸事情で頓挫してしまい、結果としてはご迷惑をおかけしてしまった。そのお詫びをした際、「よくあることですから全然気にしないで下さい。それよりもっと面白い新しいことまた考えましょうよ!」
そういう人だった。結果それを実現出来なかった自分の能力不足が本当に悔やまれる。
もう一つ。私が学生時代参加した日韓学生フォーラムという、日韓各15−20人づつの大学生が毎夏集まり、両国間の政治、経済、歴史、文化といったことを英語でディスカッションしたり学び合うという活動があり、この夏、OBである自分のところに現役学生から「韓国の大学生から「コミケをどうしても見に行きたい」という強い要望が出ているので便宜を図ってもらえないか」との依頼を受けた。

であれば単にコミケを見て回るというだけでなく、せっかく韓国から来ているのだし、アニメ・マンガのイベントを国際的な視点で捉えたお話も少ししてもらえたら、と IOEA(International Otaku Expo Association)の事務局長である櫻井さんにお願いしたところ快く引き受けて頂いた。
その際、韓国の学生たちが、たまたまこのタイミングですぐ近くにいらした アニメ「六花の勇者」オフィシャル・コスプレイヤーの御伽ねこむ(おとぎねこむ)さんと「どうしても一緒に写真を撮りたい」と言いだし、さすがに私も「いや、向こうは仕事で忙しいんだしちょっと迷惑だから」と私から彼らに話していたら、横から櫻井さんが「いや、せっかく韓国から来たんだしそのくらいやりましょうよ!」と言ってくれて頼んでくれて記念撮影もさせて頂いた。

そういう人だった。

享年49歳。本当に早すぎる死だったが、彼が半世紀の人生で地道に世界で積み上げた信頼と実績はあまりにも大きかったし、それゆえその穴も本当に大きいだろう。しかし、それで今の「アニメ文化外交」の流れを鈍化させたり後退させたりしたら、それは余りに申し訳ない。
櫻井さんがやってきてくれたことをさらに前進させるために、自分も微力ながら出来ることを頑張っていこう、、そう強く感じた日だった。

櫻井孝昌さん、ご冥福お祈りします。

飛驒のInbound Tourism & Iターン移住

今日はご縁あって、飛驒市で起業し、「サイクリングツーリズム」を主に外国人ツーリストに提供しておられる、株式会社美ら地球(ちゅらぼし)の山田拓社長のお話を伺う機会があった。

飛驒市 里山サイクリング事業(美ら地球 山田拓さん)
自分のFBにも書いたが、今年の夏に生まれて初めて飛騨高山を訪問し、外国人旅行者の多さ、そして他の地域と違い欧米人の比重の高さに驚いた。この山田さんは飛騨高山からさらに少し富山県よりに山奥にいった飛驒市の飛驒古川という場所で10年ほど前に起業した。外資系経営コンサルを辞め、夫婦で世界を2年旅して、たまたまご縁で飛驒に住むことになった山田さんは、最初は起業でなくどこか勤められる職場はないかと考えたそうだがそれは難しく、世の中よりだいぶ早く個性的なインバウンドツーリズムの会社を立ち上げたそうだ。

ここでやっている里山サイクリングは、決して何か特別なものを見るわけではなく、素朴な田園風景や、小学生の集団通学とか、地方の日本人にとってはありふれた山や川の景色を眺めたりというものなのだが、Tripadvisor等の満足度は非常に高いらしい。

山田さんの素晴らしいところは、県や市の自治体としっかり連携し地域からのサポートを得つつ、独自で特色のあるウェブサイトを作ったり、最初の電話1本目からきめ細かいフォローをする英語力&サービス精神のあるスタッフを少しづづ増やしていくともに、何より自らどんどん海外出張し営業を欠かさないという攻めの姿勢にあるのではと感じた。

日本全般でいえばやはり中国人観光客が圧倒的多数だが、この飛驒古川では、なんと豪州24%、米国17%、英国12%、シンガポール8%、以下フランス、カナダ、香港、オランダ、マレーシア、ニュージーランドなどが6−3%と、日本の他の場所に多い台湾中国韓国の依存度が極めて少ない(ちなみに飛驒高山は台湾からのお客さんが多いとのこと)。余談だが、そんな多様な旅行者がいるのに、地元の小学生は外国人=アメリカ人だと思い込んでる子が多いらしい(笑)
曰く、来てくれるお客さんトコトン満足してもらうサービスを提供する、そして、この地に来て喜んでくれそうな人に来てもらうためのマーケティングをする、というところにWebデザインから、ツアーの中身から何から、工夫をこらしているとのこと。

お酒やのし紙のラベルを書いたりとか、カエルが枝に止まってるところを写真にとったりとか、地元の農家と車座で交流したりとか、本当に何気ないものが満足度につながっているらしい。

最初は奇異な目で見ていた地元の人たちも、実際に観光客が増え、結果地域が潤うようになるなかで、山田さんに一升瓶を持ってきてくれたりとか、いい流れが増えてきているそうだ。お酒はともかくとして、いわゆるヒト、モノ、カネという経営資源のなかで、モノは地域で現地調達できる部分が多く、カネもさまざまな公的なサポートをうまくやれば得られるなか、人材の確保が一番の課題とのこと。
英語が出来、能動的に課題を解決し、コミュニケーションが柔軟な人材を地域で確保するのは本当に困難。ただ、最初夫婦で始めて、10人くらいのチームになると、やはりエネルギーの合力でとてもパワーが出るし、まだまだ伸びしろを感じている、との強い言葉があった。

全ての地域でこういうことが可能ではないだろうが、日本の地方の少なくない割合にはこういった潜在能力があること、能力と意欲のある人材が中長期取り組むことによって開ける可能性がたくさんあることを感じた会合だった。

一点だけ疑問に感じたこと。
飛驒は地理的にも歴史的にも文化的にも、岐阜市を中心とした美濃よりもはるかに富山・北陸との結びつきが強い。確かに行政的には岐阜県のもとにある高山市、飛驒市ではあるが、インバウンド観光や移住促進についてはもっと広域連携で県境を越えたアプローチが求められるのではないだろうか。北陸新幹線開通後、さらにその度合いが強まっていると思う。

今日は別用があり途中で失礼したが、山田さんのお話は本当に説得力があり面白かった。飛驒、地方、海外と激しく活動されているそうだが、今月2015年12月20日(日曜)にまた東京でトークセッションがあるらしいので、行ってみようかなーと思う。

ここでしか読めない?水木しげる先生追悼文

享年93歳、大往生だろう。本当に多くの人が惜しい人を亡くした、とか。霊界で妖怪と運動会してるのでは、とか、睡眠力や氏の七か条の話題を書いている。

自分にとっての水木しげるさんの最大の思い出は、幼い 頃トラウマになったアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」シリーズである。私の世代は、第一期の白黒アニメだった鬼太郎にはほとんど馴染みがないが、カラーになった第二期のほうは、小学校時代にかなりの頻度で再放送されていたためよく見ていた。
子供向けの勧善懲悪妖怪退治ものと思いきや、実はトンデモナイ恐ろしい話がいくつかあり、中でも「足跡の怪」(下記動画)は、本当に夢に出るくらい恐ろしかった。簡単に書くと、登場人物が、霊のたたりで目や耳や鼻が削げ落ち、死んでしまうという話。

ゲゲゲの鬼太郎「足跡の怪」

今改めてみたら、さすがに子供の頃ほどには怖くないものの、やはりグロいし、何とも救いのない話だ。そして何より、鬼太郎は完全に脇役である。

下記「地相眼」も怖かった。こちらは、妖怪の力で事業を成功させた実業家に対し、妖怪が責任を迫り、息子が石にされるという話。このエピソードでも鬼太郎は傍観者であり全く無力である。

ゲゲゲの鬼太郎「地相眼」

この第二期の鬼太郎では、45話のうち半分以上の23話が、元々は鬼太郎原作ではない水木先生の短編が元ネタとなっている。本放送のあった1971−72年という、オイルショック、ベトナム戦争、浅間山荘といった暗澹とした社会背景を反映した部分もあったようだ。

ゲゲゲの鬼太郎アニメ第二期について

といったように、自分の幼少時の水木先生はトラウマの源だったのだが、大人になってから愛読したのは氏の自伝的作品である「コミック昭和史」。

 

 

コミック昭和史

これは昭和の歴史を氏の視点からなぞった歴史漫画、特に太平洋戦争の悲惨さを描いた作品であると語られる事が多い。もちろんそれは事実でそういう読み方を最初はしたのだが、二度目、三度目と読み返したとき目がとまるのは、水木先生とニューブリテン島(現在のパプアニューギニアに所属)の土人たち(あえてこう書きます)であるトペトロやエプペたちとの交流の部分。

ラバウルの激戦で水木先生は片腕を失い現地で死にかけるのだが、現地人たちに助けられ、身内のように親しくなる(なぜかパウロと呼ばれる)。終戦後も日本に帰国せずそのまま土着しようと思うが、上官から一度は戻って親にも会えと言われ「すぐ戻ってくるから」と帰国。再訪するのは25年後の1970年。そのあたりの漫画の話が本当にワクワクするほど面白いのだ。

余談だがニューブリテン島は九州とほぼ同じ面積と太平洋諸島でもかなり大きい島。現在その最大都市となったラバウルは軍歌にもその名がよく出てくる場所で、日本軍が強固な要塞を築き、結局終戦まで米軍は包囲はしても攻め込むことはできなかった場所である。

ということで、水木しげる先生といえば「足跡の怪」「地相眼」そしてニューギニアの原住民たちとの交流。こんな側面もあることを少しでも多くの人に知ってもらえたら嬉しい限りである。

さらに余談だが、水木先生は地元境港の発展のために、ご自身のキャラクターをほとんど無償で利用させて、空港名にもなり、国内外の観光客の増加、商店街等の発展にもつながった。お亡くなりになったこのタイミングで、キャンペーン的に電子書籍で「コミック昭和史」「総員玉砕せよ」「劇画ヒットラー」などを公開して、多くの人に読んでもらうようなことは考えられないだろうか。そういえばこの夏に岩手県の遠野に行った折に氏による漫画「遠野物語」が売られていて衝動買いしたがこれも名作。

取りとめない文章になったが、一般的な鬼太郎やゲゲゲの女房とは違った、水木先生の多面的な作品軍が読み継がれていくことが、たぶん最大の供養となることだとう思う。長い漫画家人生、本当にお疲れさまでした。

日本フィギュアスケート殿堂の設立を!

野球を観るのが大好きなので、プレミア12も終わり、NPB(日本プロ野球)もMLB(米国メジャーリーグ野球)も、MVP、新人賞、ベストナイン等各賞の発表も全て終わるこの時期は少し寂しいものだ。
FAなどストーブリーグの動きも眺めつつ、次なる楽しみは、毎年1月初旬の日米の野球殿堂入り投票の結果発表である。

MLBの殿堂入りというのは大変な名誉であり、多くの米国の野球ファンはその結果をとても興味深く眺めている。NPBのほうはそこまでのステータスはないかもしれないが、東京ドームにある野球殿堂博物館は日本の野球の歴史を物語る素晴らしい施設だと思う。

実はフィギュアスケートにも殿堂がある。

世界フィギュアスケート殿堂 wiki

米国コロラドスプリングスにあるこの殿堂は、フィギュアスケートの発展に大きく貢献した人を顕彰する組織であり、1976年の最初の選出以降は毎年だいたい数名が選ばれる。やはり選手が大半であり、アマチュア引退後5年経過すれば選出される対象者となる(このへんは野球に倣ったのかもしれない)。日本人はこれまで伊藤みどりさん、佐藤信夫さんの二人が殿堂入りを果たしている。米国にあることから殿堂入りについても北米偏重との批判もあるようだし、その選出基準や選考方法に不明瞭さも批判があるようだが、まずはこういった、一つの競技の歴史を築いてきた選手、指導者、審判 等をたたえ、歴史を振り返る組織、仕組みがあることは素晴らしいことだと思う。

翻って、日本は世界でも屈指のフィギュアスケート強国であり、ここ10年来男女シングルでは毎年優勝候補やメダリストを輩出している。また、日本は今や世界で一番フィギュアスケートの試合やアイスショーに多くの観客が熱狂する国であり、明日から開幕するNHK杯フィギュア(長野)も、チケットはあっという間に完売している。日本のファンたちはもちろん日本選手に大きな声援を送るが、一方で角国どの選手に対しても暖かい応援をすると世界中の関係者で評判になっているらしい。

であれば、日本単独のフィギュアスケート殿堂も存在すべきではないだろうか。
過去の名選手やスケート界に貢献した方々を称え後世に歴史を語り継ぎつつ、今後も素晴らしい選手が輩出され続けるよう、通年リンク等練習環境の支援や、競技人口のすそ野を増やすことへの取り組み、日本の課題たるカップル競技(ペア、アイスダンス)の強化など、今これだけの人気があればこそやれることがあるのではないだろうか。

全くの思いつきだが、殿堂入りした過去から現代の名選手たちの様々な記念品等を展示するとともに、過去の映像アーカイブも蓄積し、主たる競技大会の際はパブリックビューイングを行ったり、講演会的なものをやったり、通年で書籍、DVDやグッズの販売などをやる施設があれば、かなり賑わうのではないかとも思う。
東京にあるのが一番集客できるだろうが、あえて最近通年リンクが出来た盛岡や新潟に設けて、地域活性化につなげるのも一案だろう。

今回のNHK杯に出場予定の浅田真央選手、羽生結弦選手という、歴代でも最高峰レベルの選手たちの下の世代にも次々と新星が登場しているのは素晴らしいことである。ただ、今の現状はそれぞれの選手・コーチたちの身を削るような努力に支えられていて、組織的な選手輩出のメカニズムが機能しているようには感じられない。何より本当にお金のかかるスポーツ。もちろんこれだけ国も地方も財政赤字の極限にある中で公共の予算をつけることには相当慎重でなければならないが、なんといってもお金を出すことを厭わないこれだけたくさんのファンがいるし、トップレベルになれば多くの企業にとって魅力的な広告の対象となれるのだ。民間の資本をうまく取り込む方法は、殿堂に限らずで色々考えられると思う。

そして、今の反映の礎になってきてくれた、例えば男子なら佐野稔、五十嵐文男、本田武史、高橋大輔らの先駆者たちの足跡や物語をこれからの世代にも伝えてゆけるような何かをもっと強く推進すべき時期なのではないだろうか。

NHK杯フィギュア。浅田選手、羽生選手だけでなく、他の日本選手、外国選手全員が、今年最高の演技をしてくれることを期待します!!

NHK杯フィギュア2015 公式HP

寝台急行はなます ラストランに向けて

気がつけば、「寝台急行はなます」の廃線(2016年3月中旬)がもう間近になってきている。

寝台車は昭和の日本の風物詩ともいえるノスタルジーがあるのだが、航空機の値段低下、ビジネスホテル等安価な宿泊施設の増加、新幹線網の発達、車両の老朽化とダイヤ編成の難しさ等からここ10数年で次々と廃線。今残っているのはゴージャスなものか、サンライズのような若者向けのものばかりで(それすら多くはない)、昨年3月に上野=青森を結ぶ「寝台特急あけぼの」が廃線となった現在、
青森と札幌を結ぶ「寝台急行はまなす」が最後の砦だった。

しかしながら、函館への新幹線の延伸を来春に控え、青函トンネルに寝台急行を走らせることは困難とのことで廃線が決定。個人的には、函館=札幌間だけでももう何年か残してほしいのだが、そんな需要もないし経済合理性もないのだろう。

旧型車両で、あえて効率の悪い、むしろ飛行機より値段も高い、こういう寝台車で旅をすることはある意味とても贅沢な訳で、買い込んだ乾き物やビールを飲みつつゆっくり走る列車の車窓から見える夜景や時々通過する駅の様子を眺めるのは本当に楽しいものだ。

なんとか乗らないと、、、と思い続けていたら、もう残り3ヶ月になりつつある。
今日みどりの窓口で聞いたら既に予約が取れる一ヶ月後までのものは完売、午前10時に売り出され数分で全席なくなるそうだ。今の時期の一ヶ月先が年末年始だからということもあるが、ラストランが近づくとあけぼのの時同様チケットの確保は困難を極めるだろう。。。

もっと早く一度乗っておくんだった。。。。。。。。。

いや、まだ遅くはない?1月中旬とか?めちゃ寒そうだが。。。。

参考リンク;

急行がなくなる(1)…「はまなす」廃止で何が困る

寝台急行はまなすに乗ったよ カーペット車の料金や空席状況は?

【ライブ観戦記】石野田奈津代さんコンサート@高田馬場

石野田奈津代さん、という歌手を知っている人は私の周りでは少ないだろう。
ましてファンだという人もかなりレアだと思う。

10数年前に、伊豆諸島の神津島に旅行に行ったとき、泊まった民宿(山下旅館別館)に、神津島出身の彼女のデビュー後のファーストアルバム ひまわりが置かれていた。こんな人口も少ない島から高校生がメジャーデビューというのは本当に偉業だが、あいにくCDの売上はソニーミュージックの期待を下回り、2年で契約終了。その売れ残りの在庫(失礼)を衝動買い。結構気に入って、いつか生で聴いてみたいな、と漠然と思いつつもその後すっかり忘れていたのだが、偶然新宿のレコード屋hmvのインストアライブでの彼女の歌声をバッタリ聞いて、CDアルバム さくら を店頭で購入、サインもしてもらったような。

そんなご縁?で時々ライブにも行くようになった。

彼女の公式HPでのプロフィール

かの小田和正さんが、かつて彼女の歌を激賞したこともあるらしい。

【あの小田和正も】ライブで泣かせるオンナ【認めた】

ただ、おそらくはライブに来てるのは結構前からの固定ファンが多く、新しいお客さんは少数だと思う。素晴らしい曲と歌声なので、多くの人に聴いてもらいたいなーと心から思う。

以下はyoutubeのリンクです。もし良かったら一度聴いてみて下さい。

石野田奈津代 春空
 (たぶん彼女の最大のヒット曲、PV)

石野田奈津代 オリオン (彼女のファンの間で最も人気の曲、ライブバージョン)

米国に最初に上陸した日本人

先週、北米在住の友人が日本に一時帰国しており、雑談している中で、「米国本土に最初に上陸した日本人」についての話を聞いた。あまりに興味深い話なので、ネットで色々と調べてみた。

ジョン万次郎、いや支倉常長かな、と思いきや、意外な答えが。正解は「三吉」、これは漂流した漁民三人の名前の総称で、音吉(乙吉とも云う)、岩吉、久吉の三人を指す。彼らは中部国際空港(セントレア)の南に位置する現在の愛知県美浜町出身の漁師。1832年、江戸に向かう米を積んだ船が遠州灘で難破し、1年余り太平洋を彷徨い多くの同僚船員を亡くしつつも、シアトル郊外にあるオリンピック半島先端のフラッタリー岬に漂着した。

その後も相当に数奇な人生を送ることとなる。

一度は現地で奴隷のような状態になったらしいが、イギリス船に保護され、彼らはロンドンに渡る。英国に上陸した最初の日本人も実は彼らと言われている。

当時の英国は彼らを日本に返そうとし、ロンドンからマカオに送られた。この時点で日本を出てから三年が経過。ここで史上初の聖書の日本語訳に協力。

それから2年後、アメリカのモリソン号にて帰国しようとしたが、当時の異国船打払令により砲撃を受け帰国は叶わず。上海、そしてシンガポールに定住した最初の日本人となり、そののち英国に帰化した最初の日本人となる。実に初物尽くしである。

音吉が卓越した人物だと思うのは、こんな状況にありながら、我が身を嘆くのではなく、上海において日本人漂流民の帰国に尽力し続けたことである。彼が日本への帰国を助けた漂流民は約20名という。

1843年に上海の英国系貿易会社で働き始め、上海で生活していた1861年までに、日本との通商を希望していたイギリス政府の通訳として2度日本に上陸した。そして1862年にはシンガポールに移住し貿易会社を経営。しかし、1867年、明治の直前に病気のため50歳で死去。なんとも大河ドラマになりそうなほど壮烈な人生である。

江戸時代の日本人で海外に渡った人としては、ロシアの大黒屋光太夫や高田屋嘉兵衛らが有名だが、音吉さんも、海外進出した偉大な日本人の大先達、そして日英通訳翻訳のパイオニアとして、歴史教育で取り上げられてもよいのではないかと思う。

参照記事;

*愛知県美浜町公式HP にっぽん音吉漂流の記

*音吉 wiki

*ブログ 百聞は一見に如かず「アメリカとイギリスに上陸した日本人第一号とは?万次郎の先を行っていた国際人」

 

セミナー参加日誌 『本音×理解×教育⇒可能性∞』

今週の火曜、都内某所で開かれた『本音×理解×教育⇒可能性∞』なるセミナーに参加。こちらの会合には、友人である官僚の方にお誘い頂いたのをきっかけに時々お邪魔している。その方と、広告代理店の方ら幹事の方が幅広い異業種交流会&勉強会として毎月開催されていおり、すでに2年くらい続いているらしい。

だいたい19時くらいに開始し、その日の講師の方がお題として何かをお話し、それを題材に3−4人くらいの小グループで意見交換、そのあとはありがたいことに?ビールやおつまみが出て、お酒を片手に自由に話をするというスタイル。幹事の方のネットワークのおかげで面白い方とお話がフランクな雰囲気で出来るのがとても楽しい。

いろんなお題の会があるのだが、教育関係については、やはり誰もが関心のあるテーマということで2−3ヶ月に一度開かれている。

今回は秋田県の教育関係者の方がゲストとして招かれていた。酒どころの秋田だからか、しょっぱなからビールが振舞われたのは嬉しい(笑)お話の中で気づいたこと、思ったことをいくつか。

-秋田県は昔から教育県。小中学校時の成績は全国の中でもかなり上位。しかし、高校ではだいぶ順位を下げてしまう。

-過疎化は年々進んでいる。秋田県は秋田市を含め、大潟村以外全自治体が将来消滅の危機にあると言われている。そういう状況を受けて、小中学校でも地域のことを教え、地元に誇りを持ってくれるような教育は進めている。ただ、それによって地元に残る、あるいは将来帰ってくるような若者が増えるかどうかはまだわからない。

-そんな秋田県には、秋田県立の「国際教養大学」という大学がある。2004年に出来たばかりだが今や立派な超難関大学。ただそれがゆえに秋田の県立高校出身者が合格するのは相当難しい。秋田県出身者枠を設けてその中で進学する生徒もいるがやはりついていくのは大変。この学校の大半は東京など大都市圏の出身者、卒業後の進路も東京ベースの大企業や外国企業が多く、せっかく日本中から来た学生たちは、必ず1年以上の留学を経験するなど国際的な視野を広げる一方で、多くは秋田県とはあまり接点がなく通り過ぎてしまう。

などなど。

わずか10年でこれだけのレベルの大学大学を立ち上げ、起動に乗せていらっしゃることには、創立者である故・中嶋嶺雄前学長(元東京外大学長)はじめとする関係者の皆さんに本当に敬意を表する。

しかし、せっかく秋田県という様々な歴史、文化を持つ地域との繋がりを活かしきれていないというのは残念としか思えない。これからは地方が直接海外と繋がり、人の交流やビジネスを促進する時代だ。こういう大学を出た地元出身者、あるいは他地域からの学生が、例えば秋田県庁や秋田市に就職し、あるいは地域で起業し、新しいビジネスを切り開いてゆくようになって欲しいし、大学のカリキュラムにも、もっと地域と繋がるような産学連携があってもいいのでは、と思った。

秋田の国際教養大のことばかり書いたけど、実際はそんな話題は全体の中の1%くらいで、他にも学校と地域の関わり方(池田小事件前と後)とか、教育委員会とは何か、など興味深い話題いろいろ。またお邪魔したいと思いました。幹事の皆様、ありがとうございました。

最後に、今回参加された大学生の方から「ここで色々話すのはいいけど、皆さん明日から具体的に何をするんでしょうか?自己満足で終わってしまいませんか?」という素晴らしい問題提起も頂いた。ほんと、もっと真面目に生きないと。