舛添要一氏が退任した場合、次は誰が都知事になるべき?

岡田有希子さんの死から30年

前にスペースシャトル事故の記事を投稿して、意外なほど多くのアクセスと好評を頂いた。チャレンジャー事故は1月28日だったが、その同じ年の4月8日に起きたこの出来事も、30年経った今でも忘れることが出来ない。

【投身自殺】悲劇のアイドル岡田有希子 自殺の真相

以下当時のニュース動画(*ショッキングな画像が含まれます、閲覧注意)

自殺に至った原因はいろんな噂があるが、どれも推測の域を出ないようだ。
だが、正直そんなことはどうでもいい。彼女のような逸材がこのような形で芸能生活のみならず人生そのものもわずか18歳で終えてしまったことが、今なお残念でならない。

名古屋市立向陽高校は立派な進学校であり、卒業生の多くが国公立大や有名私学に進学する。話はそれるが、このブログを書きながら調べて初めて知ったのだがマンガ家の石坂啓さんもOGだった。
普通に芸能界に入る人とはいろんな意味で違うタイプの人だったのだろうと思う。

デビュー直後の1984年5月に、東大の五月祭で彼女がステージで歌うのを生で聴く機会があった。歌も落ち着いた雰囲気だったが、トークもとても真面目できちんとした感じだったことをよく覚えている。高校の友人と二人で行ったのだが、とても好印象だったと話していたのが懐かしい。デビュー曲「ファーストデート」から「リトルプリンセス」「恋、はじめまして」と、週間売上ランキングの最高位も20位、14位、そして7位と順調に進んでいた。

ただ、今ふりかえると、この年のレコード大賞での新人賞の受賞が彼女の悲劇の始まりだったように思う。この年は、吉川晃司、菊池桃子、SALLY、一世風靡セピアと、明らかに彼女より売上も存在感も浸透度も高かった新人達がいた。しかしそこはオトナの事情や事務所の力ということで彼女は最優秀新人賞を受賞するが、その瞬間場内では「えーーーーっ??」っとの吉川晃司ファンの悲鳴が流れる。

1984年レコード大賞新人賞(動画あり)

彼女の表情もとても心から喜んでいるようには見えない。

私が彼女の歌のなかで一番好きなのは「哀しい予感」という曲。
その後の悲劇を暗示しているようで聴いていてつらいが、竹内まりや作の素晴らしい曲だと思う。

哀しい予感  作詞・作曲 竹内まりや

お願いよほんとのこと打ち明けてほしい
眠れない夜が続き
哀しい予感に揺れてる私

二度目の夏が過ぎた頃
あなたは突然変わったの
電話の声も少し冷たい
不安な気持ちのまま飛び出してきたけれど
好きよ好きよこんなにも好きよ

お願いようわさなんか嘘だと言ってね
私だけ愛してると
誓った言葉を信じたいから

心と心離れたら
友達でさえもいられない
なんて淋しい季節の始まり

明日からこの道もあの子と歩くのでしょう

風に散った私の初恋
お願いよせめて家にたどり着くまでは
つながれた指と指をはなさないでいて
泣きそうだから

さすがに四谷三丁目に追悼にまで行くことはしないが、30年後の今日改めて彼女の冥福を祈りたい。

浅田真央、北島康介、イチローに思う。

浅田真央選手の2015-16シーズンが終わった。
GPファイナル6位(出場選手中最下位)、世界選手権7位。
結果だけを見れば彼女にとっては決して本意ではなかったと思う。いくつかジャンプをミスしたショートプログラムと違い、フリーはほぼノーミスに近い演技で、ある意味ソチ五輪を彷彿させたが、フリー単独でも7位と、最終グループの6人は全員彼女を上回るフリーを演じた。ソチの頃よりも明らかにレベルは上がっているし、若手の成長もロシアを中心に著しい。そろそろ引退、という発想があっても全くおかしくはなかった。

しかし彼女は早くもその翌日に現役続行の意向をコメントしたようだ。

浅田、現役続行の意向=「そういう思いある」

メダルとか順位とか、そういうものを超えたところに彼女の目指すところはあるのだと思う。そういうことであれば次の平昌五輪まで是非頑張って欲しいし、厳しい国内の代表争いにも勝ち残って欲しいと願っている。

この浅田真央選手を見ていて、自分はもう二人の「日本スポーツ史上空前の名選手」のことを思った。水泳の北島康介、そしてイチローだ。

浅田選手含めたこの三人の共通点。それは、

-日本人選手として、その競技が始まって以来の傑出した成果を、長期間に渡って出し続けていること
-外国にも、そして次世代の若い選手達にも憧れ、目標であり続けていること
-十分過ぎるくらいの実績、名声、達成感を得ていると思われるのに、そのピークの実力が過ぎたと思われる現在においても現役選手であり続けていること

などが挙げられると思う。そしてそれぞれの競技で、羽生結弦、萩野公介、大谷翔平ら、その才能においては彼らを超えるかとも思わせる若手(たまたまだがこの三人はみな1994-95年生まれ世代)が台頭してきてもいる。引退してもっとゆったりした人生を楽しんでも良いのではないかと凡人である自分は思ってしまうのだが、彼ら超一流を極めた人たちの価値判断や行動基準は全く違うところにあるのだろう。

浅田選手のシーズンは終わり、次のシーズン、オリンピックの一年前のシーズンに向けての動きが始まる。

水泳では、リオ五輪の代表選考を兼ねた全日本選手権が今週開幕。北島選手は100、200平泳ぎにエントリー。代表入りを本気で全力で目指している。恩師平井コーチにも再度弟子入りし、一から鍛え直しているそうだ。

そしてMLBもいよいよ開幕。イチローにどれだけの出場機会が与えられるかはわからない。昨年の打率等の数字は彼にとっては考えられないほど低い結果だったことと思うが、年齢的な衰えを本人が一番感じているなか、彼は日米通算25シーズン目の開幕を迎える。

この三人のアスリート達が自分は大好きで、どの選手もまだ本格的に活躍する前の段階から注目して見続けてきていた。彼らには本当に感謝をしている。

浅田選手は素晴らしいフリーを演じてくれた。
北島選手にも、五輪代表入りをして欲しいと心より願っている。
イチロー選手にも、今シーズン3000本安打を達成して欲しい。そして彼が夢見続けてきたワールドシリーズへの出場を果たしてほしい。

 

乙武洋匡氏にはそれでも立って欲しい。

乙武氏公式HPの、ご本人と奥様による謝罪文

今の彼に対する報道は、これぞ「水に落ちた犬は叩け」状態と言わんばかりの非難轟々。今年2016年夏の参院選に自民党からの出馬が有力視されていたが、辞退・自粛せざるを得ないという報道も多く見られる。

しかし、考えてみると彼は「世間全般」や「有権者」に対して何か悪いことをしたのだろうか?
教育委員会等の公費による出張に愛人を伴っていてその費用も公費持ちだったという訳でもない。
パワハラやセクハラをした訳でもない。
もちろん不倫がいいことなはずはないが、それはあくまで彼のご家族である奥様やお子さんに対しての悪行でしかなく、その奥様が「今日に至るまで二人でしっかり話し合った結果、3人の子どもたちのためにも、あらためて夫婦ともに歩んでいくことを強く決心致しました。」とおっしゃるのであれば、アカの他人がどうこういう筋では全くないはずだ。
(*この文章がもちろん100%奥様の意思を反映しているとは思っていません。立場上こう書かざるを得ない状況もあったでしょう。そして、奥様が謝罪する必要もないしおかしいという意見にも大賛成です。しかしながら、乙武仁美さんという実名まで出しての文章ですから、ご自身の意思に完全に反する内容がアップされるということはあり得ないと考えます。)

この「社会不満足」をかつて読んだことがある。
2014年11月の本だから比較的最近出版された著書だ。
細かい部分は忘れたが、乙武氏ならではの独特の視点や考え方がとても新鮮だった。
すでにブックオフに売ってしまったが、今回の大炎上を受けてもう一度読み返してみたくなった。
やはり四肢欠損という相当大変なハンディキャップを持って生まれ、生活し、「五体不満足」で一気に超有名人になり、それからスポーツライター、教育現場など様々な仕事を経験されて、普通の人には見えないものが彼には見えるのではないかと思う。

また、五体不満足にもかかわらず、三人のお子さんがいらしたこともこの度のことで初めて知った。未だ独身の小泉進次郎より少子化対策を自ら実践していると見ることもできるだろう。

教育、福祉、スポーツ、様々な分野で、他の議員には出来ない彼ならではの知見や提案が期待出来そうだ。

そして何より、多くのひとへの、とりわけ若者世代への発信力の強さは彼の大きな武器だ。彼以上のフォロワー数を持った国会議員って一人もいないのではないだろうか。

悠仁さまご誕生の時、階段を上って入る銀座?のレストランへの批判など、何度となくご自身のツイッターやブログで炎上を経験している彼だが、今回のこれはケタがあまりにも違う大きさで、さすがに相当なダメージだろうと思う。

しかし、私は思う。
「一億総活躍社会」「バリアフリー社会」を標榜する現政権は、今こそ彼をむしろ起用すべきなのではないか。

若者の政治への無関心は大きな問題だと思う。
彼があえて出馬することで、若者の投票率アップにも少なからず貢献できるのではないだろうか?

自民党がダメなら野党でもいい。一票の格差見直しで議員定数が増えた東京選挙区なら、この逆風の中でも彼には十分チャンスはあるだろう。比例全国区で出ても一定の得票は期待できることと思う。無所属で東京から立つのもいいのではないか。

もし彼が今回立つのなら、私は一票を投じたいと心から思う。

清原の「美談」を振り返る。

清原和博は偉大な野球人だと今なお思う。こんなことになっても、殿堂入りすべき選手だとも心より思う。

覚醒剤使用で逮捕されてから、多くの人が清原についてたくさんのことを語っている。その中で目に止まった、ある「美談」を取り上げたい。
それは、2001年のシーズン最終戦に起きたことである。
以下、facebookページ「成功の架け橋」より引用。

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2001年、阪神・和田豊の引退試合。対戦相手は巨人。
一二塁の清原と仁志が
「和田さん、僕たちの方へヒットを打ってきて下さい」と、
流し打ちの名手にエールを送った。
試合中、和田の打席。
巨人内野陣は「和田シフト」
と呼ばれる一塁寄りの守備シフトを実行。
しかし一塁・清原は二塁・仁志に
「あっち行け」と手で合図。
一二塁間をあけろという事。
結果は現役最後の安打となる右翼前安打。
こういう面があるから
清原ってスターなんだなって思った。
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少なからぬ人が「清原にはこんないいところがあったんだ」という反応をしている。
実はそれが自分にはとても腹立たしい。なぜならば、この2001年10月1日の巨人にとっての最終戦は、長嶋監督の最終ゲームでもあったが、それ以上にまだヤクルトと優勝を争う大事な一戦だったからだ。

この年は「勝ち数が多いチームが上位」という不思議な制度が採用された年だった。

ヤクルトはこの10月1日のゲーム前日時点で9試合を残すも74勝(52敗5引分け)。追う巨人は、最終戦を前にして75勝(62敗2引分け)。この年の制度上は、この時点ではジャイアンツが首位だった。

しかし、巨人シーズン最終戦で、清原の「チームの勝利より引退する和田豊への “男気” 」という行動から、 和田の一打席目は上記引用のような「配慮」も手伝い安打で出塁、その後生還し先制点。二打席目も四球出塁後に4点につながる流れとなり結果5−0で阪神の勝利。

和田豊 引退試合(2001年巨人最終戦)の流れ

ここで仮に巨人が勝っていたとしたら76勝。優勝のためには残りヤクルトは3勝6敗が必要ということで依然ヤクルトが有利ではあったが、同日の10月1日にヤクルトは広島に敗北、残り8試合も結果としては2勝1分5敗と、実はかなり薄氷の優勝だった。若松監督の有名なコメント「ファンの皆様、おめでとうございます」なんて言ってられる状況ではなかったのだ。

2001年ヤクルト後半戦勝敗の詳細

2001年の巨人全試合

2001年のペナントレース(全結果)

何が言いたいかというと、清原の「美談」や「男気」は、2001年のセリーグペナントレースで巨人が優勝出来ていた可能性を大きく損なう方向に作用したということ(しかもそれは長嶋監督の最終シーズンでもあった)。
現在の覚醒剤使用で逮捕された局面で、この出来事が「ちょっといい話」としてSNS等でシェアされているのにはどうしても疑問を抱かずにはおられない。
これ自体は小さなことのようだが、このように自身が本来すべき行動から外れ、己の「男道」や「美学」で自分本位な方向に走ってしまう、これが結局彼の現在の破局につながってしまったではないだろうか。

ただ、清原を弁護するつもりではないのだが、このときの巨人というチームにも相当に問題があったと思う。
9月28日に長嶋監督の勇退と原新監督の就任を発表、また翌29日には長く巨人で活躍した斎藤雅樹、槙原寛己、村田真一も引退を発表。この時点で残り二試合、9/30の本拠地最終戦(対横浜)と10/1の甲子園(対阪神)のみ。
結果9/30は、本来は優勝の可能性を少しでも残すために何をおいても勝ちにいくべき試合であるべきだったが、監督と三選手の引退興行さながらの内容(下記リンクご参照)となり結果は4-9と惨敗。

2001年 巨人本拠地最終戦の様子(最終戦の前の試合)

この流れを受けての最終戦がゆえに、清原ばかりを非難するのももちろん正しくはない。

しかし、こういった清原の姿勢を周囲が看過した結果起きたことが、
その4年後、大魔神佐々木主浩の「引退試合」だ。

大魔神佐々木主浩の引退登板と清原選手
上記リンクから以下引用させて頂く。この方のご見解に私は完全に同意する。

それが清原選手の美学なのか?(2005年08月10日 )

昨日、大魔神こと佐々木主浩投手が故郷でラスト登板し、生涯のライバルで在り親友でも在る清原和博選手との対決で、15年のプロ人生に幕を降ろした。

一流選手に在りがちなチーム内の”お山の大将”ぶりがやや過ぎた感じを受けたし、オフシーズンとはいえあのチャラチャラぶりが鼻に付いた所が在ったので、正直な所佐々木投手は好きな選手ではなかった。しかし、選手としての彼は間違いなく超一流で在ったし、素晴らしい選手として認識していたのも事実だった。相手がベイスターズの時ジャイアンツ・ファンで在る自分は、8回が終わった時点でジャイアンツが負けていれば、敗戦を100%覚悟するのが常だった。それだけ、彼のスピード在る直球と落差の在るフォークボールは脅威で在り、絶対的な抑えだった。

そんな素晴らしい選手だったからこそ、個人的には遅きに失した引退で晩節を汚した様に感じられ、それが非常に残念である。とは言え、彼が球界に残した偉大な功績は賞賛に値するし、素晴らしいプロの技術を見せてくれた事に心から感謝したい。本当に御疲れ様でした。

唯、昨日のラスト登板で気になったというか、憤りを感じた事が在った。ラスト登板そのものに付いてではない。2回裏無死1塁で打席は清原選手という場面で佐々木投手を登板させた牛島監督の采配には、佐々木投手の意向を汲んだ上、序盤に彼を投げさせる事で公式戦という真剣勝負の場を蔑ろにさせなかったという、実に行き届いた配慮が感じられ、敵将ながら天晴れであった。佐々木投手も往年の凄みは無かったものの、真摯に投げ込んだ4球は心打たれるものが在った。自分が憤りを感じたのは、打席に立っていた清原選手の姿勢に在った。

以前、「清原発言とアンリトゥン・ルール」という記事を書いた。タイガースが大差をつけて勝っている状況で、藤川投手が2アウト満塁2-3のカウントから清原選手に対してストレートではなくフォークを投じて空振り三振に打ち取った事を、試合後に清原選手が批判した件で猛バッシングされたのだが、そんな彼を一部擁護した内容だった。だが、今回は厳しい目を向けざるを得ない。

昨日の佐々木投手との”対決”では、初球から3球目迄は全て直球勝負だった。ここからは、あくまでも自分にはそう見えたという話になってしまうが、初球の明らかにボールと判る球は別として、2&3球目のストライクとなった球は黙って見逃す程の際どいものでは全くなく、どう考えても振りに行く球だった。なのに、全く打つ素振りも見せずにアッサリと見逃し。そして、4球目は外に落ちるフォークだったが、往年の鋭さは感じられない全くのボール球に思えた。私見に過ぎないが、清原選手の美学が其処に働いていたのではないかと考える。つまり、ストレートを敢えて見逃して2ストライクとなった段階で、決め球であるフォークで豪快に三振する。八百長とは違う、ライバルの最後に花を持たせたいという美学だったのではないかと。それ程、素人目には露骨さを感じてしまう”打ち取られ方”だった。

事実の程は清原選手しか判らない。もし真剣に挑んであの結果だったのならば、清原選手のプロとしての衰えを思うだけだ。でも、仮に彼の美学に基づいてあの場面を”演出”したのだとしたら、それに付き合わされたファンは幸せだったのだろうか?少なくとも自分には、真剣勝負の場を汚された様で憤りの思いだけが残った。あれがオールスター等の”御祭り”の場で在ったならば、とやかく言うつもりは毛頭無い。公式戦という場で、尚且つ優勝チームが決まった後の消化試合ではないにも拘わらず、演出したかの様なあざとさに腹が立つのだ。「涙の御対面」といった番組で、過剰に泣きの演出を繰り返すあの嫌な感じと何処か似ている気がした。

あの場面で清原選手が打とうが打ち取られようが、又、ジャイアンツが勝とうが負けようがそんな事を問題にしているのではない。美学に基づく演出ではなく、本当に真剣勝負だったのかどうかが引っ掛かるのだ。

嘗てタイガースのエースだった江夏豊投手は、奪三振の日本タイ記録及び新記録を、最大のライバルと目していた王貞治選手で決める事を心に誓い、実際に成し遂げた。江夏投手の熱き思いはマスメディアォ通して王選手にも伝わっていたが、プロとしての意地から相手に花を持たせるという意識は全くなく、両者共に真っ向勝負に挑んだという。だからこそ、その両者の姿はファンの心に深く刻まれているのではないか。

牛島監督の配慮と佐々木投手の真摯な投球を感じただけに、清原選手の姿に自分はガッカリさせられた。

 以上。大選手清原を語るうえでは瑣末なエピソードかもしれない。
しかし、こういったことが看過されたどころか一部では褒め讃えたことが今の悲惨な状況に繋がっている側面は必ずあると思う。色々書いたが、自分はやはり同世代の清原には憧れがあった。サヨナラ本塁打はNPB史上歴代単独1位の12本。タイトルは取れなかったかもしれないが、甲子園、オールスター、日本シリーズ、大舞台に本当に強かった。
『俺たちに出来ないことを平然とやってのける、そこにシビれる憧れるゥ!』という言葉を捧げるのが本当に似つかわしい男だったと思う。それゆえに、今のどん底から立ち直り、薬物を断ち、這い上がる姿を望まずにはいられない。「男道」を見せるのはこれからだと心から思う。

 

チャレンジャー事故から30年〜オニズカ氏を偲ぶ

2016年1月28日(日本時間29日未明)は、チャレンジャー号爆発事故からちょうど30年目。スペースシャトル・チャレンジャー号はケネディ宇宙センターから発射73秒後に空中で爆発し、乗組員7人全員が亡くなった。

The Space Shuttle Challenger explodes shortly after lifting off from Kennedy Space Center, Fla., Tuesday, Jan. 28, 1986. All seven crew members died in the explosion, which was blamed on faulty o-rings in the shuttle's booster rockets. The Challenger's crew was honored with burials at Arlington National Cemetery. (AP Photo/Bruce Weaver)
The Space Shuttle Challenger explodes shortly after lifting off from Kennedy Space Center, Fla., Tuesday, Jan. 28, 1986. All seven crew members died in the explosion, which was blamed on faulty o-rings in the shuttle’s booster rockets. The Challenger’s crew was honored with burials at Arlington National Cemetery. (AP Photo/Bruce Weaver)

この瞬間のことはとてもよく覚えている。大学生の頃、深夜FM番組の「マイサウンドグラフィティ」で大瀧詠一の「EACH TIME」を流していて、それをエアチェック(死語)していた際、ちょうど「恋のナックルボール」という曲の途中で、「番組の途中ですが緊急ニュースです。、、、」との割り込みが入り、「おいおい、録音中なのにふざけんなー」と怒っていたら、直後この衝撃的ニュースを聞くことになった。

チャレンジャー号事故 wiki

この事故により、NASAの有人宇宙飛行計画は大幅に遅れることになる。この2年前に毛利衛さんら日本人初の宇宙飛行士3名が選抜されたが、彼らの初搭乗もやはり大幅に延期となった。

日本ではこの事故で亡くなられた日系2世のオニズカ氏のことが大きく報じられた。

Ellison_Shoji_Onizuka_(NASA)

オニズカ氏は、米国では日系人初、さらに言えばアジア系初の宇宙飛行士だった(*旧ソビエトでは、ベトナム人宇宙飛行士がそれ以前に宇宙に飛んだ実績あり。)

オニズカ氏 wikiから引用。

エリソン・ショージ・オニヅカ(Ellison Shoji Onizuka, 日本名:鬼塚 承次, 1946年6月24日 – 1986年1月28日)は、アメリカ空軍の大佐で、日系人初のアメリカ航空宇宙局宇宙飛行士。1946年6月24日、アメリカ合衆国ハワイ州ハワイ島コナで、コーヒー農家を営む父の鬼塚正光と母の光江の間に4人姉弟3番目の長男として生まれる。父は福岡県、母は広島県にルーツを持つ日系2世。

第二次世界大戦で戦った日系人部隊の話を幼少期より聞き覚え、生涯を通じて意識する。小学生時代、ユーリ・ガガーリンの宇宙飛行を見て宇宙に憧れ、1964年、コロラド大学へ入学して航空宇宙工学を専攻し、奨学金を得てアメリカ空軍予備役将校訓練課程を受ける。1969年、大学卒業時に空軍少尉を授かる。卒業翌日、大学時からの日系人恋人と結婚して後に二人の娘を儲ける。空軍エンジニアを務めながら、アポロ11号月面着陸のテレビ中継に影響されて宇宙飛行士を目指す。1978年、スペースシャトル計画第一期飛行士候補へ応募し、8079人の志願者から同期35人と共に選出される。スペースシャトル・チャレンジャー号乗組員として選抜されるが度々打ち上げ延期になる。

移民の子、それも戦後すぐの敵性国家日系の社会から本当に努力してスーパーエリートとなった、アメリカンドリームを体現したような人である。

しかし、彼は幼い頃聞いた442部隊をはじめとする日系人部隊のこと、そして先祖や祖国日本のことを常に強く意識していた。

1983年6月13日、自身のルーツを探したい旨の記事が西日本新聞に掲載されると200件超の情報が寄せられ、祖父母の墓を見出して血縁親族の所在も判明する。6月24日、家族と共に父方故郷の福岡県浮羽郡浮羽町に墓参して東京も訪れる。

超多忙の日々の中、ここまでして先祖の墓参をしていたのだ。

1985年1月24日、STS-51-Cミッションでディスカバリーの搭乗運用技術者として搭乗する。同乗のローレン・ジェームズ・シュライバー(英語版)アメリカ空軍大佐曰く、箸で日本料理を食べ、日の丸の鉢巻や旗、ハワイのマカダミアナッツやコナ・コーヒーを持ち込み、ハワイアン音楽をかけていたという。1986年1月28日、STS-51-Lミッションでチャレンジャーの搭乗運用技術者として搭乗し、チャレンジャー号爆発事故により39歳で殉職する。

もしこの事故に遭遇せずご存命であればその後どれだけのことをこの人は成し遂げたのだろうかと思う。

本人を称え、ハワイ島マウナ・ケア山の「マウナケア展望台ビジターインフォメーションステーション」が「オニヅカセンター」と名付けられ、コナ国際空港にある「オニヅカ・スペースセンター」に宇宙服などが展示されていて、またカリフォルニア州にオニヅカ空軍駐屯地が所在する。

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ハワイ島マウナケア山中腹(標高約2800m)にある、オニズカスペースセンター

アメリカロサンゼルスの日本人街リトル・トーキョーには、彼を偲ぶ「オニヅカ・ストリート」がある。

オニズカストリートについて

小惑星・オニヅカと月のクレーター・オニヅカ(直径29km)は彼にちなんで命名されたものである。アメリカのSFドラマ『新スタートレック』に、U.S.S.エンタープライズ NCC-1701-Dの艦載機シャトルポッドに「Shuttlepod 07 ONIZUKA」が登場する。
福岡県うきは市の鬼塚家墓所近傍に、功績を称えた「エリソン・オニヅカ橋」がある。
代々が敬虔な浄土真宗信仰の仏教徒で、本人も門徒として活動し後年に真如苑へ入信する。初飛行時、念仏や題目にあたる「讃題」を宇宙で初めて唱えたと本人が語り教団内で話題になる。

再びの宇宙飛行に際し「今回飛行すれば事故で亡くなるかもしれない、それでも行きますか」と尋ねられ、「それでも構いません」と答えて使命感と決意を固く表したといわれる

彼の父の出身地、福岡県うきは市で、つい最近慰霊祭が行われたそうだ。

慰霊祭 チャレンジャー号事故で犠牲、没後30年 オニヅカ氏の雄姿を後世へ うきは市(福岡県)

ふくおか先人金印記念館 オニズカ氏紹介文

「宇宙で初めて箸を使い、寿司を食べた男」、、、
って紹介の仕方は正直どうよと思うが(そもそも二人目はいるのか?)、自身の初フライトでわざわざそれを持ち込むことをNASAに認めさせ、ミッションスペシャリストとしての激務の傍「箸で寿司を食べた」ことには、オニズカさんの並々ならぬ祖国日本への思いがあったのではないだろうか。
それは先述の幼少期から心に刻まれた二次大戦での日系人部隊、日系人ながらアメリカ人として、他のどの部隊より勇敢に戦い、最大の死傷率の中で最大限の活躍をしたハワイの先祖たちの歴史の影響が大きかったのではないかと思う。

442部隊(再掲) (*以下青文字はこちらのHPからの引用)

1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊、通称「テキサス大隊」がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」と呼ばれ始めていた。10月25日には、第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団(日系人で構成された部隊)は、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。

10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重傷を負った。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、第442部隊の少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった

また、テキサス大隊救出作戦後、第一次世界大戦休戦記念日(11月11日)にダールキスト少将が戦闘団を閲兵した際、K中隊に18名、I中隊には8名しかいないのを見とがめ、少将が「部隊全員を整列させろといったはずだ」と不機嫌に言ったのに対し、連隊長代理のミラー中佐が「目の前に並ぶ兵が全員です。残りは戦死か入院です。」と答えたという話が残っている。その報告を聞いたダールキスト少将はショックの余りスピーチさえ出来なかったという。これは第36師団編入時には約2,800名いた兵員が1,400名ほどに減少していたためである。

ロサンゼルスに行くことがあれば、ハリウッドやディズニーランドもいいのだが、ダウンタウンのリトルトーキョーにあるオニズカストリートにもぜひ訪ねてほしい。そしてそのすぐそばにある全米日系人博物館も見て欲しい。強制収容の歴史、日系人部隊の歴史、そしてオニズカさんの足跡が多く展示されている。もちろん日本語も併記されているし、日本語堪能なガイドも多数いる。ドジャースタジアムからもほど近い。オニズカさんの母方は広島だそうだが、今年メジャーデビューする元広島カープ投手のマエケン(前田健太)の応援とあわせて、日米関係の歴史を振り返るのも良い米国訪問体験となるのではないだろうか。

丹波市と地方移住

先週末(2015年1月16日)、吉祥寺の自然食レストランパブリックキッチンにて開催された「TOKYO丹波会」というイベントに参加してきた。

Tokyo丹波会画像

丹波市というのは兵庫県の瀬戸内海と日本海の真ん中くらいにある人口7万人足らずの自治体。大阪駅からも特急で1時間程度と、東京からだと結構離れているが、近年首都圏からここに移住する若者がとても増えているそうだ。私も1年半ほど前に初めて丹波に足を運び、移住者の若者や、それを迎える地元の人のお話を色々お聞きする機会があったご縁でお邪魔した。

今回で3回目となったこの会のスローガンは、
「今を生きる丹波人と、いま現在街中で暮らしている元丹波人と、丹波に興味のある人との三つ巴の交流が丹波会の醍醐味。たんなる同窓会では終わらない、新しい繋がりをつくり、これからの丹波を一緒に考え共に動く仲間つくりのコミュニティ“丹波会”。」確かに「◯◯県人会」的な同窓会的な会合とはちょっと趣が違っていて、まさに丹波在住の人(1)、丹波出身で東京に住んでる人(2)、私のように丹波に興味がある人(3)とバリエーションに富んだ集まりだった。

(1)の中にも、その日に東京で行われた移住フェアに出張してきた市役所の人のような元からの丹波人と、Iターンで最近になって丹波で暮らすようになった人とがおり、(2)にはふるさと丹波への思いはあれど東京に持ち家を買ってしまった人、もうすぐUターンして農業を始める人、Uターンを検討中の人など。(3)も私のようにたまたま訪ねた事のあり興味をもった人、Iターンをかなり真剣に考えている人、様々だった。

丹波定住促進サイト(これも面白い。オススメは「移住女子」のコーナー)

この会の幹事の方のお話で印象深かったのは、「こういう会合があることで、これから移住を考えようという人が、丹波出身の人、丹波在住の人、Iターン経験者らと、お酒を片手にくつろいだ雰囲気でお話することで、移住のイメージがかなり具体的になるし、実際に行ってからもいきなりゼロからのスタートでなく既に顔見知りがいるところから始められる。」ということ。この効果はお互いにとって本当に大きいだろう。こういう集まりを、もっといろんな自治体でやったら良いのではないだろうか(既にたくさんあるのかもしれないが)。

今はどこも少子高齢化が進む中、大都市から地方への移住促進がある種のブームになっている。しかし、つい最近NHKで見た新潟県の日本海に浮かぶ離島の粟島の話を見たが、やはり東京から移住してくる人の感覚と、その地でずっと暮らしてきた人の感覚というのはそう簡単に相入れるものではない。

NHKクローズアップ現代 小さな島の大きな決断 ~地方創生の現場か

この番組の中で、都会から来た若い女性が、粟島に一泊3千円位の若者向けゲストハウスを作り観光客を増やし定住者にも繋げようとの企画が、地元の民宿組合が一律7千円位でやっているという理由で反対される、という話が描かれていたが、一概にどちらが正しいと言える話ではないし、都会からの「ふるさと創生事業」等に振り回され続けて島の環境も心も疲弊してしまった地元の視線はなかなか都会の人間には想像しがたい。

やはり地域で発言力のある人と、都会から来た新しい血と、その両方がうまく融合しないと地方が変わってゆくのは難しい。下記リンクの丹波市議横田いたるさんのお話にあるように、いかにそこをうまく進めてゆくかが肝心なのだろう。
丹波市議 横田いたるさんインタビュー記事

丹波というところに、そこにしかないものすごく特別な何かがある訳ではないが、こうしていろんな人たちが明るく前向きにやっていること自体がとても魅力だし、やや閉塞気味の日本全体を元気にするヒントがここにはたくさんあるように感じた。

株式会社ご近所ホームページ
(Iターンの若者が中心となって地元の活性化の事業等をやっている会社)

確かに東京からだと結構な距離ではあるけど、ほんとに魅力的な場所なので、まだ行ったことがない人には一度訪ねてみることをオススメします!

丹波の田んぼ

1964から2020へ ~水泳王国ニッポンへの道~

2016年1月11日NHK BSにて以下の番組を視聴。

1964から2020へ 惨敗から立ち上がれ~水泳王国ニッポンへの道~

競泳競技を見るのは好きで、気がつけばもう30年以上見続けていることになる。「惨敗から立ち上がれ」というタイトルはちょっと刺激的だが、これにはいくつかの意味が含まれており、一つ目は1964年の東京オリンピックでの結果を指す。

戦前の日本は競泳がとても強く、1932年ロサンゼルス五輪は金5銀5銅2、1936年ベルリン五輪は金4銀2銅5。戦後も「フジヤマのトビウオ」古橋広之進が世界記録を連発、戦敗国からの五輪復帰に大きく貢献し、1952年ヘルシンキ、1956年メルボルン、1960年ローマでもそれぞれ3、5、5個のメダルを獲得。地元日本で行われた東京五輪でも大きな期待を受けたが結果は男子800リレーの銅メダル1個に留まり、これを受けて全国の小学校へのプールの導入が進んだと言われている。

その後、1972年ミュンヘンでの田口信教、青木まゆみ、1988年ソウルの鈴木大地、1992年バルセロナの岩崎恭子と、瞬間国民的話題となるメダリストは出現したが、1996年のアトランタは、それまでの持ちタイムでは世界ランクに入る選手が千葉すず選手をはじめ特に女子に多数おり、「史上最強」と持ち上げられ大きな期待を浴びるもメダル獲得ゼロに終わった。

写真

アトランタでは惨敗した競泳陣。期待された千葉すずはバッシングを一身に浴びる格好に

この第二の惨敗を受けての日本競泳チームの改革がこの番組のメインテーマだった。下記リンク、2010年と昔の記事だが、上野氏の改革を詳しく記しているので引用する。
上野広治「競泳日本代表を革新した男」 ~お家芸復活の舞台裏~

上野広治氏はそれまで高校の水泳強豪校の部長であり体育の先生だったが、日本水連によって、日本代表ヘッドコーチに大抜擢される。それ以後彼が尽力したのは、「チームとして一つになること」。

「競泳は一人のコーチが長年にわたり同じ選手を指導する競技です。優秀なコーチであっても、見すぎているために、選手のちょっとした泳ぎの変化を見落とすことがあります。かえってほかのコーチが気づいたりする。でも、自分の教えている選手じゃないから、と見て見ぬふりをしていた。情報を共有するという考えがなく、オープンマインドでもなかったんですね。

 コーチと選手の間の溝も深かった。学校の保健室ではないけど、トレーナーの部屋に来ては、選手がコーチに対する不満をこぼしていたのです。コーチとの間のコミュニケーションが取れなかったからです。それではどんな指示を出しても選手には伝わらない」

 以前、アトランタ五輪の期間中の様子について、ある選手がこんな話をした。コーチが「メダルを獲れ」と強調するあまり、選手が反発し、手を携え戦うべき両者に対立関係が生じた。選手間でも、仲の良し悪しによってグループが形成され、極端に言えば、レースに臨む前に代表内で戦っている状態であったと言う。それは精神面にも影響を及ぼした。再び上野が語る。

「過度の緊張のせいで、レース前にもかかわらず泳いだかのような筋肉のはりのある選手もいたようです。それくらい独特の雰囲気を持つのがオリンピックなんです。なのに、支えてくれる存在がないから選手は一人で重圧を受け止めてしまうことになった」

上野氏はまず、各クラブ間、コーチ間の垣根を取り払うことに腐心、あくまで日本代表のチームとしての向上を皆に求めた。最初は反発や抵抗もあったようだが、確実に成果はあがっていった。

もちろん様々な試行錯誤や軋轢もあった。シドニー五輪代表選考がその大きな例だろう。

「結果を出すためには、戦えない選手はいらない」

 その方針は、ヘッドコーチ就任後、初めてのオリンピックとなる’00年のシドニー五輪の代表選考で実行された。日本オリンピック委員会によって認められていた派遣枠30人に対し、21名のみを代表に選出したのだ。

 突然の方針変更は混乱も呼んだ。それまでなら選ばれていたであろう選手の一人、千葉すずはスポーツ仲裁裁判所に提訴する。結局代表入りは認められなかったが、上野はこの一件を振り返って言う。

「基準をはっきり定めてオープンにしなければいけないと痛感したのは、千葉すずさんの残した功績と言えるのではないでしょうか」

 以後、選考基準は明快なものになった。代表選考会で1位か2位になった上で、日本水泳連盟が設定したタイムをクリアすること。それは国際水泳連盟の定めるタイムを大きく上回る。「世界でもっとも厳しい」と言われるほど高いハードルだ。

「現場のコーチからすれば、オリンピックを経験させるために何人か若手は連れて行ったほうがいいんじゃないかという考えも当然あります。でも結果を出すためには、戦えない選手はいらない。成果から見ても、選考基準の信憑性はあると思っています」

確かにこれ以後の代表選考は誰もが文句や疑問を挟む余地のないものとなった。陸上の男女マラソンなどでは歯切れの悪い代表選考もあるが、競泳のそれは本当にシンプルであり、「世界で戦えるレベル」に日本代表を引き上げたと言えるだろう。

上野氏が実践したことは大きく以下の3つ。

1)世界で戦えるレベルを最初から目標とする。

2)そのためにはジュニアの時代からオールジャパンで育成。そこでは監督もコーチも選手も全てが一つの「日本代表」というチームである。

3)水泳だけができればいいというものでは決してない。人間としても日本一、世界一を目指す教育をする。

こう文字で書いてしまうといささか陳腐だが、これを実践し続けてこそのアテネ、北京、ロンドンでの競泳陣の大活躍があったと思う。

そして、競泳だけでなく、他のスポーツはもちろん、全ての分野においてこういう取り組みが大事なのではないかと感じた。

そして、この改革を選手として引っ張ったのはやはり北島康介だろう。

そして次のリオ五輪では、萩野公介、瀬戸大也という傑出した若い才能の活躍が期待される。複数種目でメダルを狙える選手が日本から現れるというのは、昔から考えると奇跡的なことだ。

なぜ萩野公介をキャプテンに任命したのか 成長の糧は練習とレースだけではない

その萩野選手を指導している平井コーチの記事。平井コーチは北島康介を育てたことで有名だが、その後上野監督と平井ヘッドコーチ二人三脚で代表を育成している。

故・古橋広之進会長がかつて上野に残した言葉も番組で紹介された。

「自分の時代には「魚になるまで泳げ!」と言われて朝から晩まで練習していた。だが、早く泳ぐだけなら、人は魚には勝てない。」

人としての成長あってこそのもので、タイムやメダルはその後からついてくる、ということを競泳日本代表チームが示してくれているのではないだろうか。

北島康介は今も現役選手を続けており、リオ五輪代表を狙っているそうである。あれだけの栄光を極めた彼が目指すものは果たして何なのだろうか。

そして、日本人のスケールを超えた結果を出してきている萩野、瀬戸両選手。

萩野選手は「2020年の東京オリンピックでは、男子400メドレーリレーで王者米国を破り金メダルを取りたい。」と公言している。米国はこれまで、引き継ぎ違反の一度を除きこの種目では負けたことのない絶対王者。20年前にはこんなことを妄想することすら出来なかったが、彼らならもしかしたら、、、という期待が描けてしまう。

今年2016年、4月のリオ五輪代表選考会である日本選手権。そして8月の五輪本番が楽しみでならない。

50歳からの人生〜伊能忠敬に学ぶ〜

ここ数年の間に、日本の人口減少と少子高齢化が深刻な問題として取り上げられる頻度と比重が猛烈に上がったように感じる。実際に統計を見てみた。

総務省人口統計(平成27年12月報)

平成27年12月時点の推計日本人口は1億2688万人、国別ランキングでは現在世界10位。11、12位のメキシコ(1.20億)、フィリピン(1.00億、いずれも2014年推計)に抜かれる日も近そうだ。ただこれらの新興国は若者中心の構成だが、日本は65歳以上が3399万人と全体の27%。この比率は今後年々上がってゆく。50歳以上ということだと実に5799万人(46%)、もうあと数年で過半数となるのは間違いない。

少子化対策というとどうしても出生率を上げようとか移民を増やそうといった議論がメインとなるが、実は50代以上の世代がいかに元気でいるか(収入を増やし納税する、活発に消費する、医療福祉の世話に出来るだけならない)ことのほうが重要度も高く即効性もあるのではないだろうか。その意味で、最近伊能忠敬の人生にとても魅力を感じている。

能力・人徳とも本当に傑出した人物だった。
しかし、彼が本当にやりたかったことは実は暦学・天文学で、激務のなか独学でかなりのものを学んでいたが、50歳で息子に家督を譲り、それ以後は全く違った人生を歩む。引用を続ける。
これだけの成功をした人物が、全く新しい分野で20歳年下の人に師事するというのも大変なことだと思う。そして、
そうと決まればあとは実践あるのみ。

「フェルドマン博士の日本経済最新講義」

ちきりんさんのブログで紹介されていた、「フェルドマン博士の日本経済最新講義」を年末年始に読んでみよう、と思い、本日購入。

Chikirinさんブログ「フェルドマン博士の 日本経済最新講義」について

昭和の男なので、やはり本はAmazonからではなく、書店でぱらぱらと見てから購入。完全にブログに影響されて買ったのにアフィリエイトにお金落とさないでごめんなさい。でももう十分お金持ちだろうからいいよね。