2016年1月28日(日本時間29日未明)は、チャレンジャー号爆発事故からちょうど30年目。スペースシャトル・チャレンジャー号はケネディ宇宙センターから発射73秒後に空中で爆発し、乗組員7人全員が亡くなった。

この瞬間のことはとてもよく覚えている。大学生の頃、深夜FM番組の「マイサウンドグラフィティ」で大瀧詠一の「EACH TIME」を流していて、それをエアチェック(死語)していた際、ちょうど「恋のナックルボール」という曲の途中で、「番組の途中ですが緊急ニュースです。、、、」との割り込みが入り、「おいおい、録音中なのにふざけんなー」と怒っていたら、直後この衝撃的ニュースを聞くことになった。
この事故により、NASAの有人宇宙飛行計画は大幅に遅れることになる。この2年前に毛利衛さんら日本人初の宇宙飛行士3名が選抜されたが、彼らの初搭乗もやはり大幅に延期となった。
日本ではこの事故で亡くなられた日系2世のオニズカ氏のことが大きく報じられた。
オニズカ氏は、米国では日系人初、さらに言えばアジア系初の宇宙飛行士だった(*旧ソビエトでは、ベトナム人宇宙飛行士がそれ以前に宇宙に飛んだ実績あり。)
オニズカ氏 wikiから引用。
エリソン・ショージ・オニヅカ(Ellison Shoji Onizuka, 日本名:鬼塚 承次, 1946年6月24日 – 1986年1月28日)は、アメリカ空軍の大佐で、日系人初のアメリカ航空宇宙局宇宙飛行士。1946年6月24日、アメリカ合衆国ハワイ州ハワイ島コナで、コーヒー農家を営む父の鬼塚正光と母の光江の間に4人姉弟3番目の長男として生まれる。父は福岡県、母は広島県にルーツを持つ日系2世。
第二次世界大戦で戦った日系人部隊の話を幼少期より聞き覚え、生涯を通じて意識する。小学生時代、ユーリ・ガガーリンの宇宙飛行を見て宇宙に憧れ、1964年、コロラド大学へ入学して航空宇宙工学を専攻し、奨学金を得てアメリカ空軍予備役将校訓練課程を受ける。1969年、大学卒業時に空軍少尉を授かる。卒業翌日、大学時からの日系人恋人と結婚して後に二人の娘を儲ける。空軍エンジニアを務めながら、アポロ11号月面着陸のテレビ中継に影響されて宇宙飛行士を目指す。1978年、スペースシャトル計画第一期飛行士候補へ応募し、8079人の志願者から同期35人と共に選出される。スペースシャトル・チャレンジャー号乗組員として選抜されるが度々打ち上げ延期になる。
移民の子、それも戦後すぐの敵性国家日系の社会から本当に努力してスーパーエリートとなった、アメリカンドリームを体現したような人である。
しかし、彼は幼い頃聞いた442部隊をはじめとする日系人部隊のこと、そして先祖や祖国日本のことを常に強く意識していた。
1983年6月13日、自身のルーツを探したい旨の記事が西日本新聞に掲載されると200件超の情報が寄せられ、祖父母の墓を見出して血縁親族の所在も判明する。6月24日、家族と共に父方故郷の福岡県浮羽郡浮羽町に墓参して東京も訪れる。
超多忙の日々の中、ここまでして先祖の墓参をしていたのだ。
1985年1月24日、STS-51-Cミッションでディスカバリーの搭乗運用技術者として搭乗する。同乗のローレン・ジェームズ・シュライバー(英語版)アメリカ空軍大佐曰く、箸で日本料理を食べ、日の丸の鉢巻や旗、ハワイのマカダミアナッツやコナ・コーヒーを持ち込み、ハワイアン音楽をかけていたという。1986年1月28日、STS-51-Lミッションでチャレンジャーの搭乗運用技術者として搭乗し、チャレンジャー号爆発事故により39歳で殉職する。
もしこの事故に遭遇せずご存命であればその後どれだけのことをこの人は成し遂げたのだろうかと思う。
本人を称え、ハワイ島マウナ・ケア山の「マウナケア展望台ビジターインフォメーションステーション」が「オニヅカセンター」と名付けられ、コナ国際空港にある「オニヅカ・スペースセンター」に宇宙服などが展示されていて、またカリフォルニア州にオニヅカ空軍駐屯地が所在する。
ハワイ島マウナケア山中腹(標高約2800m)にある、オニズカスペースセンター
アメリカロサンゼルスの日本人街リトル・トーキョーには、彼を偲ぶ「オニヅカ・ストリート」がある。
オニズカストリートについて
小惑星・オニヅカと月のクレーター・オニヅカ(直径29km)は彼にちなんで命名されたものである。アメリカのSFドラマ『新スタートレック』に、U.S.S.エンタープライズ NCC-1701-Dの艦載機シャトルポッドに「Shuttlepod 07 ONIZUKA」が登場する。
福岡県うきは市の鬼塚家墓所近傍に、功績を称えた「エリソン・オニヅカ橋」がある。
代々が敬虔な浄土真宗信仰の仏教徒で、本人も門徒として活動し後年に真如苑へ入信する。初飛行時、念仏や題目にあたる「讃題」を宇宙で初めて唱えたと本人が語り教団内で話題になる。
再びの宇宙飛行に際し「今回飛行すれば事故で亡くなるかもしれない、それでも行きますか」と尋ねられ、「それでも構いません」と答えて使命感と決意を固く表したといわれる。
彼の父の出身地、福岡県うきは市で、つい最近慰霊祭が行われたそうだ。
慰霊祭 チャレンジャー号事故で犠牲、没後30年 オニヅカ氏の雄姿を後世へ うきは市(福岡県)
「宇宙で初めて箸を使い、寿司を食べた男」、、、
って紹介の仕方は正直どうよと思うが(そもそも二人目はいるのか?)、自身の初フライトでわざわざそれを持ち込むことをNASAに認めさせ、ミッションスペシャリストとしての激務の傍「箸で寿司を食べた」ことには、オニズカさんの並々ならぬ祖国日本への思いがあったのではないだろうか。
それは先述の幼少期から心に刻まれた二次大戦での日系人部隊、日系人ながらアメリカ人として、他のどの部隊より勇敢に戦い、最大の死傷率の中で最大限の活躍をしたハワイの先祖たちの歴史の影響が大きかったのではないかと思う。
442部隊(再掲) (*以下青文字はこちらのHPからの引用)
1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊、通称「テキサス大隊」がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」と呼ばれ始めていた。10月25日には、第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団(日系人で構成された部隊)は、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。
10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重傷を負った。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、第442部隊の少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった
また、テキサス大隊救出作戦後、第一次世界大戦休戦記念日(11月11日)にダールキスト少将が戦闘団を閲兵した際、K中隊に18名、I中隊には8名しかいないのを見とがめ、少将が「部隊全員を整列させろといったはずだ」と不機嫌に言ったのに対し、連隊長代理のミラー中佐が「目の前に並ぶ兵が全員です。残りは戦死か入院です。」と答えたという話が残っている。その報告を聞いたダールキスト少将はショックの余りスピーチさえ出来なかったという。これは第36師団編入時には約2,800名いた兵員が1,400名ほどに減少していたためである。
ロサンゼルスに行くことがあれば、ハリウッドやディズニーランドもいいのだが、ダウンタウンのリトルトーキョーにあるオニズカストリートにもぜひ訪ねてほしい。そしてそのすぐそばにある全米日系人博物館も見て欲しい。強制収容の歴史、日系人部隊の歴史、そしてオニズカさんの足跡が多く展示されている。もちろん日本語も併記されているし、日本語堪能なガイドも多数いる。ドジャースタジアムからもほど近い。オニズカさんの母方は広島だそうだが、今年メジャーデビューする元広島カープ投手のマエケン(前田健太)の応援とあわせて、日米関係の歴史を振り返るのも良い米国訪問体験となるのではないだろうか。
知りませんでした。機会があれば訪れたいです。(^_^)
てラッキーさん、
コメントありがとうございました。ぜひぜひ。