チャレンジャー事故から30年〜オニズカ氏を偲ぶ

2016年1月28日(日本時間29日未明)は、チャレンジャー号爆発事故からちょうど30年目。スペースシャトル・チャレンジャー号はケネディ宇宙センターから発射73秒後に空中で爆発し、乗組員7人全員が亡くなった。

The Space Shuttle Challenger explodes shortly after lifting off from Kennedy Space Center, Fla., Tuesday, Jan. 28, 1986. All seven crew members died in the explosion, which was blamed on faulty o-rings in the shuttle's booster rockets. The Challenger's crew was honored with burials at Arlington National Cemetery. (AP Photo/Bruce Weaver)
The Space Shuttle Challenger explodes shortly after lifting off from Kennedy Space Center, Fla., Tuesday, Jan. 28, 1986. All seven crew members died in the explosion, which was blamed on faulty o-rings in the shuttle’s booster rockets. The Challenger’s crew was honored with burials at Arlington National Cemetery. (AP Photo/Bruce Weaver)

この瞬間のことはとてもよく覚えている。大学生の頃、深夜FM番組の「マイサウンドグラフィティ」で大瀧詠一の「EACH TIME」を流していて、それをエアチェック(死語)していた際、ちょうど「恋のナックルボール」という曲の途中で、「番組の途中ですが緊急ニュースです。、、、」との割り込みが入り、「おいおい、録音中なのにふざけんなー」と怒っていたら、直後この衝撃的ニュースを聞くことになった。

チャレンジャー号事故 wiki

この事故により、NASAの有人宇宙飛行計画は大幅に遅れることになる。この2年前に毛利衛さんら日本人初の宇宙飛行士3名が選抜されたが、彼らの初搭乗もやはり大幅に延期となった。

日本ではこの事故で亡くなられた日系2世のオニズカ氏のことが大きく報じられた。

Ellison_Shoji_Onizuka_(NASA)

オニズカ氏は、米国では日系人初、さらに言えばアジア系初の宇宙飛行士だった(*旧ソビエトでは、ベトナム人宇宙飛行士がそれ以前に宇宙に飛んだ実績あり。)

オニズカ氏 wikiから引用。

エリソン・ショージ・オニヅカ(Ellison Shoji Onizuka, 日本名:鬼塚 承次, 1946年6月24日 – 1986年1月28日)は、アメリカ空軍の大佐で、日系人初のアメリカ航空宇宙局宇宙飛行士。1946年6月24日、アメリカ合衆国ハワイ州ハワイ島コナで、コーヒー農家を営む父の鬼塚正光と母の光江の間に4人姉弟3番目の長男として生まれる。父は福岡県、母は広島県にルーツを持つ日系2世。

第二次世界大戦で戦った日系人部隊の話を幼少期より聞き覚え、生涯を通じて意識する。小学生時代、ユーリ・ガガーリンの宇宙飛行を見て宇宙に憧れ、1964年、コロラド大学へ入学して航空宇宙工学を専攻し、奨学金を得てアメリカ空軍予備役将校訓練課程を受ける。1969年、大学卒業時に空軍少尉を授かる。卒業翌日、大学時からの日系人恋人と結婚して後に二人の娘を儲ける。空軍エンジニアを務めながら、アポロ11号月面着陸のテレビ中継に影響されて宇宙飛行士を目指す。1978年、スペースシャトル計画第一期飛行士候補へ応募し、8079人の志願者から同期35人と共に選出される。スペースシャトル・チャレンジャー号乗組員として選抜されるが度々打ち上げ延期になる。

移民の子、それも戦後すぐの敵性国家日系の社会から本当に努力してスーパーエリートとなった、アメリカンドリームを体現したような人である。

しかし、彼は幼い頃聞いた442部隊をはじめとする日系人部隊のこと、そして先祖や祖国日本のことを常に強く意識していた。

1983年6月13日、自身のルーツを探したい旨の記事が西日本新聞に掲載されると200件超の情報が寄せられ、祖父母の墓を見出して血縁親族の所在も判明する。6月24日、家族と共に父方故郷の福岡県浮羽郡浮羽町に墓参して東京も訪れる。

超多忙の日々の中、ここまでして先祖の墓参をしていたのだ。

1985年1月24日、STS-51-Cミッションでディスカバリーの搭乗運用技術者として搭乗する。同乗のローレン・ジェームズ・シュライバー(英語版)アメリカ空軍大佐曰く、箸で日本料理を食べ、日の丸の鉢巻や旗、ハワイのマカダミアナッツやコナ・コーヒーを持ち込み、ハワイアン音楽をかけていたという。1986年1月28日、STS-51-Lミッションでチャレンジャーの搭乗運用技術者として搭乗し、チャレンジャー号爆発事故により39歳で殉職する。

もしこの事故に遭遇せずご存命であればその後どれだけのことをこの人は成し遂げたのだろうかと思う。

本人を称え、ハワイ島マウナ・ケア山の「マウナケア展望台ビジターインフォメーションステーション」が「オニヅカセンター」と名付けられ、コナ国際空港にある「オニヅカ・スペースセンター」に宇宙服などが展示されていて、またカリフォルニア州にオニヅカ空軍駐屯地が所在する。

400px-Onizuka_Center_for_International_Astronomy

ハワイ島マウナケア山中腹(標高約2800m)にある、オニズカスペースセンター

アメリカロサンゼルスの日本人街リトル・トーキョーには、彼を偲ぶ「オニヅカ・ストリート」がある。

オニズカストリートについて

小惑星・オニヅカと月のクレーター・オニヅカ(直径29km)は彼にちなんで命名されたものである。アメリカのSFドラマ『新スタートレック』に、U.S.S.エンタープライズ NCC-1701-Dの艦載機シャトルポッドに「Shuttlepod 07 ONIZUKA」が登場する。
福岡県うきは市の鬼塚家墓所近傍に、功績を称えた「エリソン・オニヅカ橋」がある。
代々が敬虔な浄土真宗信仰の仏教徒で、本人も門徒として活動し後年に真如苑へ入信する。初飛行時、念仏や題目にあたる「讃題」を宇宙で初めて唱えたと本人が語り教団内で話題になる。

再びの宇宙飛行に際し「今回飛行すれば事故で亡くなるかもしれない、それでも行きますか」と尋ねられ、「それでも構いません」と答えて使命感と決意を固く表したといわれる

彼の父の出身地、福岡県うきは市で、つい最近慰霊祭が行われたそうだ。

慰霊祭 チャレンジャー号事故で犠牲、没後30年 オニヅカ氏の雄姿を後世へ うきは市(福岡県)

ふくおか先人金印記念館 オニズカ氏紹介文

「宇宙で初めて箸を使い、寿司を食べた男」、、、
って紹介の仕方は正直どうよと思うが(そもそも二人目はいるのか?)、自身の初フライトでわざわざそれを持ち込むことをNASAに認めさせ、ミッションスペシャリストとしての激務の傍「箸で寿司を食べた」ことには、オニズカさんの並々ならぬ祖国日本への思いがあったのではないだろうか。
それは先述の幼少期から心に刻まれた二次大戦での日系人部隊、日系人ながらアメリカ人として、他のどの部隊より勇敢に戦い、最大の死傷率の中で最大限の活躍をしたハワイの先祖たちの歴史の影響が大きかったのではないかと思う。

442部隊(再掲) (*以下青文字はこちらのHPからの引用)

1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊、通称「テキサス大隊」がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」と呼ばれ始めていた。10月25日には、第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団(日系人で構成された部隊)は、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。

10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重傷を負った。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、第442部隊の少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった

また、テキサス大隊救出作戦後、第一次世界大戦休戦記念日(11月11日)にダールキスト少将が戦闘団を閲兵した際、K中隊に18名、I中隊には8名しかいないのを見とがめ、少将が「部隊全員を整列させろといったはずだ」と不機嫌に言ったのに対し、連隊長代理のミラー中佐が「目の前に並ぶ兵が全員です。残りは戦死か入院です。」と答えたという話が残っている。その報告を聞いたダールキスト少将はショックの余りスピーチさえ出来なかったという。これは第36師団編入時には約2,800名いた兵員が1,400名ほどに減少していたためである。

ロサンゼルスに行くことがあれば、ハリウッドやディズニーランドもいいのだが、ダウンタウンのリトルトーキョーにあるオニズカストリートにもぜひ訪ねてほしい。そしてそのすぐそばにある全米日系人博物館も見て欲しい。強制収容の歴史、日系人部隊の歴史、そしてオニズカさんの足跡が多く展示されている。もちろん日本語も併記されているし、日本語堪能なガイドも多数いる。ドジャースタジアムからもほど近い。オニズカさんの母方は広島だそうだが、今年メジャーデビューする元広島カープ投手のマエケン(前田健太)の応援とあわせて、日米関係の歴史を振り返るのも良い米国訪問体験となるのではないだろうか。

丹波市と地方移住

先週末(2015年1月16日)、吉祥寺の自然食レストランパブリックキッチンにて開催された「TOKYO丹波会」というイベントに参加してきた。

Tokyo丹波会画像

丹波市というのは兵庫県の瀬戸内海と日本海の真ん中くらいにある人口7万人足らずの自治体。大阪駅からも特急で1時間程度と、東京からだと結構離れているが、近年首都圏からここに移住する若者がとても増えているそうだ。私も1年半ほど前に初めて丹波に足を運び、移住者の若者や、それを迎える地元の人のお話を色々お聞きする機会があったご縁でお邪魔した。

今回で3回目となったこの会のスローガンは、
「今を生きる丹波人と、いま現在街中で暮らしている元丹波人と、丹波に興味のある人との三つ巴の交流が丹波会の醍醐味。たんなる同窓会では終わらない、新しい繋がりをつくり、これからの丹波を一緒に考え共に動く仲間つくりのコミュニティ“丹波会”。」確かに「◯◯県人会」的な同窓会的な会合とはちょっと趣が違っていて、まさに丹波在住の人(1)、丹波出身で東京に住んでる人(2)、私のように丹波に興味がある人(3)とバリエーションに富んだ集まりだった。

(1)の中にも、その日に東京で行われた移住フェアに出張してきた市役所の人のような元からの丹波人と、Iターンで最近になって丹波で暮らすようになった人とがおり、(2)にはふるさと丹波への思いはあれど東京に持ち家を買ってしまった人、もうすぐUターンして農業を始める人、Uターンを検討中の人など。(3)も私のようにたまたま訪ねた事のあり興味をもった人、Iターンをかなり真剣に考えている人、様々だった。

丹波定住促進サイト(これも面白い。オススメは「移住女子」のコーナー)

この会の幹事の方のお話で印象深かったのは、「こういう会合があることで、これから移住を考えようという人が、丹波出身の人、丹波在住の人、Iターン経験者らと、お酒を片手にくつろいだ雰囲気でお話することで、移住のイメージがかなり具体的になるし、実際に行ってからもいきなりゼロからのスタートでなく既に顔見知りがいるところから始められる。」ということ。この効果はお互いにとって本当に大きいだろう。こういう集まりを、もっといろんな自治体でやったら良いのではないだろうか(既にたくさんあるのかもしれないが)。

今はどこも少子高齢化が進む中、大都市から地方への移住促進がある種のブームになっている。しかし、つい最近NHKで見た新潟県の日本海に浮かぶ離島の粟島の話を見たが、やはり東京から移住してくる人の感覚と、その地でずっと暮らしてきた人の感覚というのはそう簡単に相入れるものではない。

NHKクローズアップ現代 小さな島の大きな決断 ~地方創生の現場か

この番組の中で、都会から来た若い女性が、粟島に一泊3千円位の若者向けゲストハウスを作り観光客を増やし定住者にも繋げようとの企画が、地元の民宿組合が一律7千円位でやっているという理由で反対される、という話が描かれていたが、一概にどちらが正しいと言える話ではないし、都会からの「ふるさと創生事業」等に振り回され続けて島の環境も心も疲弊してしまった地元の視線はなかなか都会の人間には想像しがたい。

やはり地域で発言力のある人と、都会から来た新しい血と、その両方がうまく融合しないと地方が変わってゆくのは難しい。下記リンクの丹波市議横田いたるさんのお話にあるように、いかにそこをうまく進めてゆくかが肝心なのだろう。
丹波市議 横田いたるさんインタビュー記事

丹波というところに、そこにしかないものすごく特別な何かがある訳ではないが、こうしていろんな人たちが明るく前向きにやっていること自体がとても魅力だし、やや閉塞気味の日本全体を元気にするヒントがここにはたくさんあるように感じた。

株式会社ご近所ホームページ
(Iターンの若者が中心となって地元の活性化の事業等をやっている会社)

確かに東京からだと結構な距離ではあるけど、ほんとに魅力的な場所なので、まだ行ったことがない人には一度訪ねてみることをオススメします!

丹波の田んぼ

1964から2020へ ~水泳王国ニッポンへの道~

2016年1月11日NHK BSにて以下の番組を視聴。

1964から2020へ 惨敗から立ち上がれ~水泳王国ニッポンへの道~

競泳競技を見るのは好きで、気がつけばもう30年以上見続けていることになる。「惨敗から立ち上がれ」というタイトルはちょっと刺激的だが、これにはいくつかの意味が含まれており、一つ目は1964年の東京オリンピックでの結果を指す。

戦前の日本は競泳がとても強く、1932年ロサンゼルス五輪は金5銀5銅2、1936年ベルリン五輪は金4銀2銅5。戦後も「フジヤマのトビウオ」古橋広之進が世界記録を連発、戦敗国からの五輪復帰に大きく貢献し、1952年ヘルシンキ、1956年メルボルン、1960年ローマでもそれぞれ3、5、5個のメダルを獲得。地元日本で行われた東京五輪でも大きな期待を受けたが結果は男子800リレーの銅メダル1個に留まり、これを受けて全国の小学校へのプールの導入が進んだと言われている。

その後、1972年ミュンヘンでの田口信教、青木まゆみ、1988年ソウルの鈴木大地、1992年バルセロナの岩崎恭子と、瞬間国民的話題となるメダリストは出現したが、1996年のアトランタは、それまでの持ちタイムでは世界ランクに入る選手が千葉すず選手をはじめ特に女子に多数おり、「史上最強」と持ち上げられ大きな期待を浴びるもメダル獲得ゼロに終わった。

写真

アトランタでは惨敗した競泳陣。期待された千葉すずはバッシングを一身に浴びる格好に

この第二の惨敗を受けての日本競泳チームの改革がこの番組のメインテーマだった。下記リンク、2010年と昔の記事だが、上野氏の改革を詳しく記しているので引用する。
上野広治「競泳日本代表を革新した男」 ~お家芸復活の舞台裏~

上野広治氏はそれまで高校の水泳強豪校の部長であり体育の先生だったが、日本水連によって、日本代表ヘッドコーチに大抜擢される。それ以後彼が尽力したのは、「チームとして一つになること」。

「競泳は一人のコーチが長年にわたり同じ選手を指導する競技です。優秀なコーチであっても、見すぎているために、選手のちょっとした泳ぎの変化を見落とすことがあります。かえってほかのコーチが気づいたりする。でも、自分の教えている選手じゃないから、と見て見ぬふりをしていた。情報を共有するという考えがなく、オープンマインドでもなかったんですね。

 コーチと選手の間の溝も深かった。学校の保健室ではないけど、トレーナーの部屋に来ては、選手がコーチに対する不満をこぼしていたのです。コーチとの間のコミュニケーションが取れなかったからです。それではどんな指示を出しても選手には伝わらない」

 以前、アトランタ五輪の期間中の様子について、ある選手がこんな話をした。コーチが「メダルを獲れ」と強調するあまり、選手が反発し、手を携え戦うべき両者に対立関係が生じた。選手間でも、仲の良し悪しによってグループが形成され、極端に言えば、レースに臨む前に代表内で戦っている状態であったと言う。それは精神面にも影響を及ぼした。再び上野が語る。

「過度の緊張のせいで、レース前にもかかわらず泳いだかのような筋肉のはりのある選手もいたようです。それくらい独特の雰囲気を持つのがオリンピックなんです。なのに、支えてくれる存在がないから選手は一人で重圧を受け止めてしまうことになった」

上野氏はまず、各クラブ間、コーチ間の垣根を取り払うことに腐心、あくまで日本代表のチームとしての向上を皆に求めた。最初は反発や抵抗もあったようだが、確実に成果はあがっていった。

もちろん様々な試行錯誤や軋轢もあった。シドニー五輪代表選考がその大きな例だろう。

「結果を出すためには、戦えない選手はいらない」

 その方針は、ヘッドコーチ就任後、初めてのオリンピックとなる’00年のシドニー五輪の代表選考で実行された。日本オリンピック委員会によって認められていた派遣枠30人に対し、21名のみを代表に選出したのだ。

 突然の方針変更は混乱も呼んだ。それまでなら選ばれていたであろう選手の一人、千葉すずはスポーツ仲裁裁判所に提訴する。結局代表入りは認められなかったが、上野はこの一件を振り返って言う。

「基準をはっきり定めてオープンにしなければいけないと痛感したのは、千葉すずさんの残した功績と言えるのではないでしょうか」

 以後、選考基準は明快なものになった。代表選考会で1位か2位になった上で、日本水泳連盟が設定したタイムをクリアすること。それは国際水泳連盟の定めるタイムを大きく上回る。「世界でもっとも厳しい」と言われるほど高いハードルだ。

「現場のコーチからすれば、オリンピックを経験させるために何人か若手は連れて行ったほうがいいんじゃないかという考えも当然あります。でも結果を出すためには、戦えない選手はいらない。成果から見ても、選考基準の信憑性はあると思っています」

確かにこれ以後の代表選考は誰もが文句や疑問を挟む余地のないものとなった。陸上の男女マラソンなどでは歯切れの悪い代表選考もあるが、競泳のそれは本当にシンプルであり、「世界で戦えるレベル」に日本代表を引き上げたと言えるだろう。

上野氏が実践したことは大きく以下の3つ。

1)世界で戦えるレベルを最初から目標とする。

2)そのためにはジュニアの時代からオールジャパンで育成。そこでは監督もコーチも選手も全てが一つの「日本代表」というチームである。

3)水泳だけができればいいというものでは決してない。人間としても日本一、世界一を目指す教育をする。

こう文字で書いてしまうといささか陳腐だが、これを実践し続けてこそのアテネ、北京、ロンドンでの競泳陣の大活躍があったと思う。

そして、競泳だけでなく、他のスポーツはもちろん、全ての分野においてこういう取り組みが大事なのではないかと感じた。

そして、この改革を選手として引っ張ったのはやはり北島康介だろう。

そして次のリオ五輪では、萩野公介、瀬戸大也という傑出した若い才能の活躍が期待される。複数種目でメダルを狙える選手が日本から現れるというのは、昔から考えると奇跡的なことだ。

なぜ萩野公介をキャプテンに任命したのか 成長の糧は練習とレースだけではない

その萩野選手を指導している平井コーチの記事。平井コーチは北島康介を育てたことで有名だが、その後上野監督と平井ヘッドコーチ二人三脚で代表を育成している。

故・古橋広之進会長がかつて上野に残した言葉も番組で紹介された。

「自分の時代には「魚になるまで泳げ!」と言われて朝から晩まで練習していた。だが、早く泳ぐだけなら、人は魚には勝てない。」

人としての成長あってこそのもので、タイムやメダルはその後からついてくる、ということを競泳日本代表チームが示してくれているのではないだろうか。

北島康介は今も現役選手を続けており、リオ五輪代表を狙っているそうである。あれだけの栄光を極めた彼が目指すものは果たして何なのだろうか。

そして、日本人のスケールを超えた結果を出してきている萩野、瀬戸両選手。

萩野選手は「2020年の東京オリンピックでは、男子400メドレーリレーで王者米国を破り金メダルを取りたい。」と公言している。米国はこれまで、引き継ぎ違反の一度を除きこの種目では負けたことのない絶対王者。20年前にはこんなことを妄想することすら出来なかったが、彼らならもしかしたら、、、という期待が描けてしまう。

今年2016年、4月のリオ五輪代表選考会である日本選手権。そして8月の五輪本番が楽しみでならない。